2008年6月 1日 (日)

硫黄島の遺産・その2

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本日は硫黄島を通して、アメリカ国民というのはどういう人たちかをお話します。

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硫黄島で日本軍とアメリカ軍が戦ったことを知っている日本人はわずかばかり。ほとんどの人たちは硫黄島の存在すら知りません。若い人たちの中には、硫黄島が韓国か台湾の島だと思っている人たちもいます。

硫黄島…。

アメリカ国民はこの言葉を聞くと、思わず背筋を伸ばし厳粛な気持ちになるそうです。

日本国民はすっかり硫黄島を忘れてしまいましたが、アメリカ国民は硫黄島をけっして忘れることはありません。

その一例を挙げましょう。

もし、皆さんの周りにアメリカ人がいれば、こう質問をしてみて下さい。

「あなたが今まで見た戦争写真で、もっとも感銘を受けたものは何ですか?」

ほとんどのアメリカ人がこう答えます。

「それは、硫黄島の星条旗です。」

彼らが言う「硫黄島の星条旗」という写真は、アメリカ海兵隊が硫黄島に上陸して四日目に、すり鉢という小高い山の頂に、六人の兵士が星条旗を立てた瞬間を写した写真です。

この星条旗を立てた兵士6名のうち、わずか3名しか生きてアメリカに帰れませんでした。硫黄島の戦闘の激しさがわかりますよね。

この写真がアメリカ国内で新聞紙上で報道された時、数百万人のアメリカ国民が釘付けになったと言います。この写真を見たアメリカ人は、いつ、どこで、どのような状況で見たかということまで詳細に覚えているとか。あたかも日本国民が、いつ、どこで、終戦の玉音放送を聞いたかを覚えているというのと似ていますよね。それほどこの写真はアメリカ国民に感銘を与えたんです。そして今なお、太平洋戦争を経験していない世代のアメリカ国民に感銘を与え続けています。

すっかり硫黄島を忘れてしまった日本国民。今なお硫黄島と聞くと厳粛な気分になるアメリカ国民。

このような違いがなぜ起こるか、理由がわかりますか?

それは、日本国民とアメリカ国民では、戦争と軍人に対する考え方がまったく違うからなんです。

日本の場合、戦争はまったくの悪なんです。戦争さえなければ平和であり続けると信じています。だから過去の戦争はあやまちであり、はやく忘れたい過去なんです。

アメリカの場合はどうかと言うと、戦争があるから平和や民主主義が保たれると考えています。そりゃ、彼らも戦争は嫌です。極力戦争はしたくない。でも戦争がなければ、平和も民主主義もあり得ない。

彼らにとって戦争は必要悪なんです。

必要悪だといっても、誰でも戦場で戦いたくないですよね。命を失うかもしれませんから。

だから、彼らは平和や民主主義を守るために戦ってくれる軍人に名誉を与えるんです。

名誉とは何か知ってますか?

名誉とは、感謝と敬意を表すことです。

彼らが硫黄島と聞くと、厳粛な気持ちになるのは、この戦いで3万人の海兵隊員が死傷したからです。一箇所の戦いでこれほどの死傷者が出たのは、ゲティスバーグの戦い(死傷者5万人)以来のことです。彼らは硫黄島で亡くなった多くの海兵隊員たちの勇気とその犠牲に対して、強い尊敬と感謝の念を覚えるから、厳粛な気持ちになるのです。

ゲティスバーグと言えば、彼らはゲティスバーグの戦いも忘れません。

南北戦争の中で最大の戦いが行われたゲティスバーグでは、毎年、南北の統一のために戦って亡くなられた兵士たちのために慰霊祭が行われます。その時、戦死した兵士たち一人ひとりの名前を読み上げ、アメリカ国民は感謝と彼らの勇気に敬意を表します。

ゲティスバーグの戦いが行われたのは、140年前ですよ!

驚くべきことです!

アメリカ国民は、140年前の兵士一人ひとりに名誉を与え、そして彼らを忘れまいとしているのです。

日本じゃ考えられませんよね~。

140年前というと、日清・日露戦争よりずっと前です。戊辰戦争のころです。

日本の新しい夜明けのために、この戊辰戦争で亡くなられたサムライ兵士たちのために、今の日本人が厳粛な気持ちになって、慰霊祭をおこなうということはまずないでしょう。

皆さんが映画やCNNで見て、知っているつもりになっているアメリカ国民って、本当はこういう人たちなんですよ。日本人とまったく違うでしょう!

アメリカ国民は、軍人に対して、敬意と感謝(名誉)を表すことをけっして忘れない人たちなんです。

特に、危険を顧みず、勇敢な行為を行い、名誉勲章(medal of honor)を贈られた軍人に対しては、特別に名誉を与え、永く忘れないように努力するんですよ。

最近の名誉勲章を受けた人では、マイケル・モンスーア(Michael Monsoor)海兵隊員の例があります。

2006年、9月29日、モンスーア海兵隊員は、イラクでアルカイダの掃討作戦に参加していました。

その日、モンスーア海兵隊員は、他の仲間6人(米国海兵隊員3名とイラク兵士3名)と、援護射撃をするため、近くの建物の屋上に配備されていました。

その時、モンスーア隊員の胸に、ポンっと何かが当たって、コロコロと屋根の上をころがりました。

それは手榴弾でした。

こんな時、皆さんならどうします?

普通だったら、その場から、ダッと離れて地面に伏せますよね。

彼はそうしませんでした。

モンスーア隊員は、逆にその手榴弾を追っかけて行って、その上に覆いかぶさったんです。

当然、彼の体の下で手榴弾は爆発し、彼は即死でした。

なぜ、彼がそのような行動をとっさに取ったのか?

6人の仲間が手榴弾の周りにいたからなんです。

彼は自分の命と引き換えに、仲間6名の兵士の命を救う道を選んだんです。

後日、モンスーア兵士の勇気を讃え、名誉勲章授与式がホワイトハウスで行われました。

ブッシュ大統領は、彼の両親に、"America owes you a debt that can never be repaid(アメリカはけっしてお返しすることのできない恩をあなた方から受けました)!" と言って、涙で顔をくしゃくしゃにしながら名誉勲章を手渡しました。これは全米にも放送され、アメリカ国民もモンスーア兵士のために泣きました。そして、アメリカ国民は2006年9月29日をマイケルの日と定め、永く彼に対する名誉を忘れないように決意しました。

アメリカ国民は勇敢な兵士には最大限の名誉を与えるのです。

皆さんの馴染みのある例をもう一つ。

いま、アメリカでは、ヒラリーさんとオバマさんの民主党大統領候補者選びが終盤を迎えていますよね。これは、民主党ではなく、すでに大統領候補者の権利を獲得した共和党のジョン・マケイン氏についての話です。

ニューズウィーク誌のワールド・ビューというコラムを書いているジャーナリストで、ファリード・ザカリア(Fareed Zakaria)という人がいます。

ザカリア氏は辛らつな批判をする人なんです。民主党の大統領候補であるヒラリー女史やオバマ氏などは皮肉を込めて痛烈に批判をします。

でも、ジョン・マケイン氏を批判する時には、ちょっと違った書き方をします。5月5日号のニューズウィーク誌では、彼はジョン・マケイン氏を批判する際に、このような前置きを書きました。

"I write this with sadness because I greatly admire John McCain, a man of intelligence, honor and enormous personal and political courage. But …(私は、知的な人であり、名誉のある人であり、かつ個人的および政治家として勇気があるジョン・マケイン氏を尊敬しているので、これを書くのは悲しいのですが…)"

また、タイム誌やニューズウィーク誌の読者の投書欄も同様です。一般読者がマケイン氏を批判する前には、ほとんどの人が、「マケイン氏は名誉ある人で、個人的には尊敬していますが、しかし…」って、書き方をします。

なぜ、みんな、マケイン氏に気を遣うか知っていますか?

実は、マケイン氏は元軍人で、しかもベトナム戦争の英雄だからです。

1970年、ベトナム戦争に参戦していたマケインは、操縦していた航空機が撃ち落され、南ベトナムで捕虜となります。彼は航空機から脱出の際に負傷したのですが、病院に入れられることなく、ハノイの刑務所に送られて拷問を受け、なんども生死の境をさ迷いました。その後、南ベトナムは彼が海軍大将の息子であることを知り、南ベトナムが人道国家であることをピーアールするために、マケイン氏を釈放しようとしました。

ところが、マケイン氏は釈放を拒否。この時に彼が言った言葉が、有名な "First in, first out(最初に捕まった捕虜を最初に解放すべし)" でした。そして、彼はその後も拷問に耐え続け、ベトナム戦争終了のパリ協定で釈放されるまで、5年間の捕虜生活を送りました。

5年間の捕虜生活で、彼の髪は白くなり、両腕は肩より上に上がらなくなってしまったとか。すさまじい拷問だったんですね。それでもその拷問に屈しなかったマケイン氏の不屈の闘志と精神力の強さに、アメリカ国民は尊敬の念を抱いているのです。だから彼らがマケイン氏を批判するときは、ちょっと前置きをするんですよ。

話が少し逸れてしまいましたが、類まれな勇気のある行為に対しては、アメリカ国民はこの様に敬意と感謝を表します。

それをもっとも表したものが、名誉勲章なのです。軍人にとって最高の名誉であり、めったに取れるものではありません。

ところが、この硫黄島ではゴロゴロと名誉勲章を贈られた兵士が続出しました。

第二次世界大戦の4年間に、87個の名誉勲章が贈られました。そのうち28個の名誉勲章が硫黄島のたった一箇月の戦いで出たのです。三分の一にあたる数です。

先ほど、「硫黄島の星条旗」の写真の話をしましたが、現在この写真をもとに、国立アーリントン墓地の入り口に、星条旗を立てる6人の海兵隊員の彫刻が飾られています。その台座のところに、合衆国太平洋艦隊の司令長官だったチェスター・ニミッツの言葉が刻まれています。

"Uncommon Valor was a Common Virtue (硫黄島で戦ったアメリカ海兵隊員にとって、非凡な剛勇が平凡な美徳であった)."

勇猛果敢で知られるアメリカ海兵隊が、名誉勲章に値する勇敢な行為が普通になるほどの勇気を出さなければ、硫黄島は落とせなかったのです。

それほどすさまじい戦いだったということです。

ここまでお話しすると、アメリカ国民がどういう人たちか理解いただけたので、彼らにとって硫黄島がどのような存在かおわかりいただけたかと思います。硫黄島は彼らにとって神聖な聖地になっているのです。アメリカ国民は、硫黄島と聞くと、自然に背筋を伸ばし、厳粛な気分になってしまうのがわかるでしょう。

アメリカ国民というのは不思議な連中です。

彼らが勇敢な軍人に敬意を表すのは自国の兵士だけではありません。

なんと!日本兵に対しても敬意を表すのです。

アメリカ国民は、日本兵が硫黄島で水も食料もなく、灼熱地獄の穴倉で耐えながら、戦っていたことを後から知り、日本兵の精神力の強さに底知れぬ恐怖を感じました。そして、日本とは二度と戦いたくない…って、思ったんですね。

ところが、それと同時に、彼らは硫黄島で戦った日本兵に対して、尊敬の念も持ったのです。

硫黄島で負傷し米軍捕虜となった大越晴則さんは、サンフランシスコ、シカゴ、ハワイなどの捕虜収容所を経て、昭和22年に復員しました。彼は硫黄島で戦った時、まだ17歳でした。ところが、彼がイオウトウ・ソルジャーとわかると、どの収容所でもアメリカ軍人から一目置かれたと言います。「イオウトウ・ソルジャーとカミカゼ・ソルジャーは別だ!」って言われたそうです。

やはり、捕虜となった石井周治さんは、サンフランシスコの収容所での経験を次のように回想しています。

 ある日のことでした。ガードの一人が、「オマエは一体どこで捕虜になったのか?」

 と聞くので、

 「硫黄島で…」

 と答えると、ガードは一瞬ハッとするように顔色を変えて銃を持ち直した。我々の方が逆にびっくりした。(『硫黄島に生きる』より)

恐怖と尊敬の入り混じった複雑な心境…。それが当時のアメリカ国民が硫黄島の日本兵に持つ感情だったのです。

今でも、アメリカ軍人は、硫黄島の生き残りの元日本兵に会うと、相手がどんなにヨボヨボであろうとも、襟を正して直立不動の姿勢で敬意を表すそうです。

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硫黄島を通して、アメリカ国民がどういう人たちかを語りましたが、戦争や軍人に対する感覚が日本と相当違うことがお分かりになりましたでしょうか?

最後に、もし、皆さんの周りにアメリカ人がいたら、このように質問してみてください。

「太平洋戦争で、もっともアメリカを苦しめ、それゆえアメリカ人からもっとも尊敬されている日本の軍人はだれですか?」

山本五十六や東条英機ではありませんよ。

おそらく、こう答える人が多いと思います。

ジェネラル・クリバヤシ…。

彼らがジェネラル・クリバヤシというのは、栗林忠道という軍人です。

栗林忠道中将は硫黄島で日本軍の指揮を取り、アメリカとの陸海空の物量的差にもかかわらず、奇跡の戦いを起こした人です。

ほとんどの日本人は、栗林忠道という名前を知らないだろうな…。

この人はアメリカでは、名将十傑に選ばれている人で、特に軍関係者から尊敬を受けている人なんです。

栗林忠道中将は、残念ながら日本人にはすっかり忘れられてしまいましたが、今なおアメリカ人のこころの中で、偉大な軍人として生き続けています。

次回は、この硫黄島の最高司令官・栗林忠道中将についてお話したいと思います。

ちょっと、いや、かなり右翼っぽくなっていますが、ご興味のある方は、keep in touch with をお願いします。

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あとがき)

文中にも書きましたが、軍人に名誉を与えるとは、敬意と感謝を表すことなんです。

この名誉を軍人に与えることは、アメリカだけでなく、どのこの国でも行っています。誰でも戦場で戦いたくないものです。その嫌な仕事をしてくれるのが軍人なんです。だからどこの国でも国民は感謝と敬意を軍人に払います。

日本だけが軍人に名誉を与えません。

かつて小泉純一郎首相が、「靖国には心ならずも戦争に行って亡くなられた方がいるので、その御霊を慰めるために」、と言って、靖国神社を訪問しました。この時、生きている英霊とも言える、小野田寛郎さんが怒りました。「心ならずもとは何事か!」

小野田さん曰く、

「ボクは嫌々戦場に行ったんじゃない。愛する日本を守るために自ら進んで戦場に行ったんです。もし、そこで死んだとしたら、死ぬ気で死んでいったんです!」

亡くなられた兵士を哀れむことが慰霊ではありません。感謝と敬意を表すことが彼らの慰霊になるんです。名誉を与えることなんです。

自衛隊も同じです。彼らにも名誉を与えるべきではないでしょうか。

彼らがサマーワで任務を終えて帰国したとき、反戦市民団体が憲法違反のデモを行い、TVのレポータは茶化したような報道をしました。

日本で迎えた自衛隊の家族は、「父親が、夫が、命を賭けて任務を遂行してきたのに…」って、悔し涙を流したそうです。

軍人がなぜ命を賭けて戦えるか。皆さんは考えたことがありますか?

名誉があるからなんです。軍人は名誉のために死ぬんですよ!!!

名誉を与えない日本の自衛隊が、有事の際に、果たして私たちのために命を賭けて戦ってくれるかどうか、甚だ疑問です…。

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2008年5月25日 (日)

硫黄島の遺産・その1

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1989年2月23日の夜、私は会社の同僚と新橋のガード下で、お酒を飲んでいました。

読者の皆さんはお上品な方が多いでしょうから、新橋のガード下の飲み屋街なんて行ったことがないかもしれませんね。屋台が連なっており、料金が安いので、私のような貧乏サラリーマンなどが行きます。ちょっと人生の悲哀を感じるような飲み屋街なんです。

その日は小雨混じりの天気で、とても寒い日でした。コートを羽織ったまま二人で焼き鳥をつまみに、熱燗を飲んでいました。

なぜ、2月23日なんて日時を正確に覚えているかというと、翌日が大葬の礼がとりおこなわれる日だったからです。

若い人たちは記憶がないかもしれませんが、1989年の1月7日に昭和天皇が崩御され、2月24日に大葬の礼(天皇陛下のお葬式)が行われたんです。世界127ヵ国の元首が出席しました。アメリカ合衆国の大統領・ブッシュパパ、フランス大統領のミッテラン、イギリスのエジンバラ公など、世界中のMVP(ん、VIPだっけ?)が集まったのは、この時だけです。

2月24日は公休日となり、テレビのメディアはコマーシャルを自主規制し、日本国民はすべてその日は喪に服したのです。

いわば2月23日は、昭和という時代が幕をおろす直前の日だったのです。

本来であれば、さっさと帰宅して喪に服さなければならないのに、ノー天気な我々は、「明日は休みだから、ちょっと飲みに行っちゃおうか!」ってなノリで、新橋のガード下の飲み屋街に繰り出したのでした。(不謹慎ですよね。)

さすがに、翌日は大葬の礼が行われるとあって、屋台の飲み屋街は人通りも少なく、閑散としていました。そんなうら寂しい飲み屋街で我々が飲んでいると、

「御いっしょさせてもらっていいですか?」

と、一人の男性が声をかけてきました。

振り返ると、なんと!外人。

友人は英語はしゃべれないし、当時私も30歳から英語のやり直しをしたばかりで、英会話には自信がありませんでした。だからちょっとドギマギしちゃいましたが、この外人は日本語が堪能だったので安心しました。

「どうぞ、どうぞ」ということで、新橋のガード下には似つかわしくない外人を含めた三人組が屋台でお酒を飲み始めました。

彼はドイツのジャーナリストで、大葬の礼を報道するために日本に来たということでした。

彼はむかし日本の大学に留学しており、そのころ彼の友達とよく新橋のガード下に飲みに来ていたそうです。この日も報道クルーと最終打ち合わせをしたあとに、彼が宿泊していたホテルが新橋に近かったので、なつかしいガード下に来てみたとのことでした。

彼は日本語が堪能だけでなく、日本の歴史もよく知っていました。

彼は日本の昭和という時代を語り始めました。

日本は第二次世界大戦で、ドイツを裏切らずに最後まで同盟国であったことを感謝しておいると言いました。

そして、日本の戦後について、彼は驚くべきことを言いました。

「日本は太平洋戦争で、ひょっとしたらアメリカに勝ったんではないだろうか?」

私は、「なぜ、そう思うの?」と、訊きました。

彼の話を総合するとこういうことでした。

通常、戦争が終わると、戦勝国と敗戦国のあいだで、講和条約が結ばれますが、その条約の条件は敗戦国にとって不利なものとなります。戦勝国は敗戦国に対して、賠償を要求し、領土の割譲を求めるのが普通です。

ところが、日本とアメリカの戦後の取り決めを見ると、どれもこれもアメリカに不利なものばかりで、敗戦国は日本ではなく、アメリカに思えてしまうということでした。

戦後、アメリカは日米安保条約を結び、一方的に日本を守ることを約束しました。そのため日本は軍備にお金をかけることなく、経済に専念することができました。またアメリカは日本に対して賠償金を要求することなく、それどころか日本を特恵国とする特別な法律を作り、日本から優先的に輸入することによって、日本の経済支援をしました。

同じ軍事同盟を結んでいる韓国は大変だったそうです。

朝鮮戦争はもとより、ベトナム戦争のときも、韓国軍は刈りだされて、アメリカ軍といっしょにベトコンと血みどろの戦いをしなければなりませんでした。朝鮮戦争のときも、ベトナム戦争のときも、日本は何をしていたかというと、ぬくぬくと戦争特需を受けて経済活動に専念していたのです。

その結果どうなったか?

日本は短期間で経済復興を成し遂げ、一時国民一人当たりのGNPがアメリカを抜き、世界第一の経済大国になったのです。

また、アメリカは占領した沖縄を返還しました。

未だかつて歴史上、戦争で得た領土を自主的に戦勝国が返還した例はないそうです。アメリカが日本に対して気を遣っているように見えますよね。

これらを総合すると、彼にはどうしても、太平洋戦争でアメリカが日本に勝ったと思えないということでした。

私はこのドイツ人に教えてもらうまで、安保条約が日本に有利な条約だと考えたことがありませんでした。

私が小学校の低学年のころに、安保改定騒動があり、「アンポ!ハンタイ!」のシュプレヒコールが日本国中鳴り響いていました。だから安保条約というのは、不平等条約と思っていましたし、安保改定をした岸信介は極悪人だと思っていました。たしか、岸信介が首相を辞任した数日後に、暴漢に襲われてナイフで刺された時は、「ざま~見ろ!当然の報いだ!」ってな雰囲気が世間にあったように記憶しています。

たぶん、このブログを読んでいる読者の皆さんの中にも、安保条約が不平等条約だと思われている人たちが多いのではないでしょうか。

これ、安保条約を読んだことがないからなんですね。

もし私たちがこのドイツ人のように、ちゃんと安保条約を読むと、安保条約が日本にとって有利な条約であることがわかります。極東地域で国際紛争が起きた場合は、アメリカは軍隊を出して日本を守ることが義務付けられています。それに対して日本は憲法の範囲以内で協力するだけです。アメリカがどこかの国から侵略を受けても、日本はアメリカに軍隊を送らなくっていいんです。一方向なんです。アメリカがテロに攻撃されても、本来日本は軍隊を出す義務はないんですよ。(現在の海上給油やサマワへの自衛隊派遣はお付き合いでしているだけで安保条約とは関係ありません。念のため。)

言い方を変えると、安保条約は逆不平等条約になっているんです。アメリカにとって不利な条約なんです。

なぜ、アメリカは安保条約という不利な条約を結び、そして日本を経済援助したのでしょうか?

ドイツ人ジャーナリストだけでなく、普通に考えると誰でも不思議に思いますよね。

これ、後年いろいろな本を読んで、理由がわかりました。

硫黄島の戦いがあったからなんです。

硫黄島…。

ほとんどの日本人が硫黄島の戦いを忘れてしまいました。若い人の中には、硫黄島を韓国の島だと思っている人もいるとか。

アメリカ人は硫黄島をぜったに忘れません。硫黄島と聞くと、アメリカ人は思わず背筋を伸ばし、厳粛な気分になるそうです。

硫黄島の住所は、東京都小笠原郡硫黄島。れっきとした東京都内です。

周囲は22キロと小さな島ですが、この小さな島で、かつてない激しい地上戦が行われました。

なぜ、この島で激戦が行われたかというと、硫黄島がグアムと東京を結ぶ直線上の中間点にあったからです。グアムにはB29という大型爆撃機がありましたが、東京を空襲するには、グアムー東京間の3000キロという距離は長すぎました。どうしても中間拠点が必要だったのです。だからどうしてもアメリカは硫黄島を取る必要がありました。

それまで、アメリカはアッツ、タラワ、キスカ、グアム、サイパン、テニアンといった島を次々に落としてきました。だいたい5日から2週間くらいで日本兵は玉砕しました。

これまでだと、上陸時に激しい戦闘がありますが、いったんアメリカ軍が上陸すると、その夜に日本軍は「バンザイ」突撃を仕掛けて、玉砕するのがパターンでした。

アメリカは硫黄島の補給路をすでに断っていました。

日本軍には食料も弾薬もほとんどないことを知っていました。それに比べて、アメリカ軍は食料も豊富にあり、戦車もあり、また海上からの砲撃や空からの空爆もできました。アメリカ軍の戦力は日本軍をはるかに超えていました。

だからアメリカはこれまで落としてきた島々より簡単に硫黄島を落とせると思っていました。せいぜい5日くらいで日本兵はバンザイ突撃をして全滅するだろう安易に考えていたのです。

日本軍二万人に対して、アメリカは五個師団(約十万人)を硫黄島に送り込み、三個師団(約六万人)を上陸させました。

圧倒的な人数ですよね。

ところが、これまでのパターンと違い、硫黄島の日本兵はバンザイ突撃を仕掛けてきませんでした。

替わりに、硫黄島の日本兵は地下道を掘り、組織的なゲリラ戦で36日間にわたって接近戦を挑みました。

その結果、日本人二万人の死傷者に対し、アメリカはそれを上回る三万人の死傷者を出してしまったのです。

アメリカ国民は戦慄しました。

硫黄島のアメリカ軍の死傷者数は、第二次世界大戦の史上最大の作戦と言われたノルマンジー上陸戦をはるかに越えるものでした。アメリカが一箇所の戦いでこれほどまでの被害を出したのは、南北戦争のゲティスバーグ以来のことだったんです。

だから、日本兵はなんて強いんだ!って、アメリカ国民は恐怖を感じたんです。

彼らは戦争を研究する国民です。日本軍が玉砕した後に、硫黄島を隈なく調べました。

そして日本兵がどのような状態で戦っていたかが徐々にわかってくるにつれて、さらに恐ろしくなって震えが止まらなくなっちゃったんです。

硫黄島はその名の通り、島全体が火山の上にある島です。したがって地下の中は40度から50度くらいの温度があります。

しかも硫黄島には川がありません。

飲料水は雨による貯水に頼るしかないのですが、地上戦が始まってからは外に出て行くことができないので、ほとんど水なしの状態で戦わなくてはならなくなってしまったのです。

アメリカ兵が近づいてくると、日本兵は突然穴から出て行ってゲリラ戦を仕掛けるのですが、それまで日本兵はほとんど水も食料もなく、高温の穴倉に隠れてじっとしているんですよ。

このつらさがわかりますか?

特に水がないことほど苦しいものはありません。しかも穴の中は高温多湿。水なし食い物なしでウェット・サウナに入っていることを想像して下さい。普通だったら気が狂っちゃいますよ。それこそ破れかぶれで、「バンザイ」突撃をしたくなっちゃうと思いませんか?

でも、日本兵はそれに耐え、戦い抜いたんです。

すごい精神力だと思いませんか?

硫黄島から生還したアメリカ兵も日本兵も、「この世の地獄だった」って言います。

でも、アメリカ兵と日本兵では、地獄の意味が違うんです。

アメリカ兵の地獄は仲間が次々と死んでいくことでしたが、日本兵の地獄は生きることだったんです。

それほど渇水がつらかったんです。

でも彼らは「バンザイ」突撃をしませんでした。彼らは、潔い死を死ぬよりも、生きる地獄を選んだんです。

なぜだかわかりますか?

彼らは自分たちが戦っている間は、日本に空爆は行われないと信じていたからなんです。

自分たちが生きている間は、お年寄りや女性たち、そして子供たちが空襲を受けて、逃げ惑い、死ぬようなことが起きないと思っていたからなんです。

愛する家族が住む日本を守りたい!って、彼らはひたすら願っていました。

だから、潔い死を死ぬよりも、地獄の生を生き、できるだけ長くアメリカ軍と戦おうと決心したんです。

そして日本兵は36日間も戦い抜きました。戦場で倒れた日本兵はほとんどミイラのようにやせ細っていたそうです。

その結果どうなったか。

アメリカ国民は日本兵の精神力の強さに、底知れぬ恐怖を感じたのです。そしてこう思いました。

二度と日本とは戦いたくない…。

硫黄島の兵士たちがアメリカ国民にこう思わせたから、戦後、アメリカは日本に軍隊を持たせず、安保条約によって一方的に日本を守ることを約束したのです。スターリンが北海道を占領させてほしいと言ってきた時も、アメリカはこんな強い日本国民の一部を東側に取られるなんてとんでもない!ってことで、拒否しました。だから日本は朝鮮やドイツのように分断されずに済みました。また、貧困からヒトラーのような独裁者が現れるのを恐れたため、アメリカは日本に対する賠償金を要求することを諦め、逆に日本を特恵国とする法律を作り、優先的にアメリカに日本製品を輸入することによって、日本を経済援助しました。

朝鮮戦争やベトナム戦争が起きても、アメリカは日本に対して出兵を要求しませんでした。あの強い日本軍が復活することを恐れたためです。

あれも、これも、それも、すべて硫黄島で日本兵が地獄を生きて戦ってくれたおかげです。

だから、今の日本の繁栄は硫黄島で玉砕した日本兵二万人の犠牲の上になりたっているのです。

米国太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツは、硫黄島と同様にペリリュー島の地下壕を構築して戦い、そして玉砕していった日本兵を讃えるために、島に碑を建てました。

そこにはこのように碑文が刻まれています。

   「諸国から訪れる旅人たちよ、

   この島を守るために日本軍人が

   いかに勇敢な愛国心をもって戦い

   そして玉砕したかを伝えれよ」

これは、硫黄島の兵士たちにもあてはまります。

硫黄島にはまだ日本に帰って来れない一万体の御柱が洞窟の中に横たわっているんですよ!

日本人はアメリカ国民のように、硫黄島で戦われた日本兵士たちへの敬意と感謝をけっして忘れるべきではありません。

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あとがき)

硫黄島の戦いは戦後の日本の原点なのです。

それにもかかわらず、学校の教科書では硫黄島の話は出てきません。あったとしてもほとんどが反日史観から、その悲惨さばかりを強調して、硫黄島の兵士たちがどのよう気持ちで戦い、そして彼らの成し遂げた歴史的業績を教えません。だから、日本人は硫黄島の兵士に感謝することもなく、どんどんと硫黄島を忘れていきます。

端的な例が硫黄島の呼び名です。

ほとんどの日本人が硫黄島の呼び名すら忘れてしまいたした。

おそらくこのブログを読んでいる読者も、硫黄島を「イオウジマ」と読んでいると思います。

これ、間違いです。

硫黄島の正式名称は、「イオウトウ」です。

戦前に硫黄島に住んでいた住民も、硫黄島で戦った兵士も、そして当時の日本国民も「イオウトウ」と呼んでいました。なぜ、「イオウジマ」というようになったかというと、アメリカ軍にいた日系アメリカ兵の通訳が間違えて、「イオウジマ」と訳してしまったからです。ところが、戦後日本人は硫黄島を忘れてしまったため、アメリカ人が発音する「イオウジマ」が正しい呼び名だと勘違いしてしまったのです。

このブログ記事を書いている時でさえ、パソコン画面に硫黄島と書こうと思うと、「イオウジマ」とローマ字入力しないと硫黄島という漢字が出てきません。「イオウトウ」では登録されていません。それほど日本人は「イオウジマ」が正しい呼び名だと思い込んじゃってるんです。

これからは、正しく歴史を見直すために、次回から皆さんだけでも正しい呼び名、「イオウトウ」と読んで下さいね。

本日は硫黄島の戦いの概要を簡単にお話しましたが、次回はもう少し詳しくこの硫黄島の戦いを見ていきたいと思います。

to be continued です。

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2008年1月13日 (日)

17世紀に身を置き18世紀を支配した人

アメリカでは毎年と言っていいほど、銃の乱射による事件が後を立たない。

昨年の4月にバージニア工科大学で起きた銃による乱射では、32人もの教員や学生たちが殺された。また今から8年前に起きたコロラド州立高校の銃乱射を覚えている読者も多いだろう。

大規模な乱射事件が起きるたびに、アメリカ国内では銃の規制を立法化しようという声が上がるが、いつのまにかそれらの運動が中途半端に終わってしまう。

「アメリカ人ってなんて野蛮な人種なんだ!」って思われる読者も多いだろう。あるいは銃規制に反対する全米ライフル協会は、「なんて力のある圧力団体なんだ!」って思われている読者もいるかもしれない。

ところが、この銃規制が進展しない本当の理由はもっと別のところにある。

このことを知っている日本人って案外少ないのではないだろうか。

アメリカが銃規制を断行できない理由は、銃規制が民主主義の根幹にかかわる問題だからなのである。

「えっ!なんで平和な民主主義が銃と関係あるの???」って思われる読者も多いと思う。

そう思われて当然である。というのは、

我々日本人が学校で教わってきた民主主義と、アメリカ国民が学校で学んできた民主主義がまったく違うからなのである。

端的に言うと我々日本人に見える民主主義の風景とアメリカ国民に見えている民主主義の風景が違うのである。

ちょっとむつかしいと思うので、たとえをつかって説明しよう。

たとえば、健康。

我々は健康というと、あたかも健康という「物」が存在しているように考えがちであるが、健康という「物」が存在しているわけではない。

健康をどのようなものであるかという捕らえ方、考え方なのである。

健康の見方には二通りあると思う。

一つは外側から見た健康。

顔色が良く、元気ハツラツで、ご飯もおいしく食べられる。身体のどこにも痛くはなく、自由に動かすことができる。このような状態を外から見て、健康の存在を実感する人もいるであろう。いわば外面から見た健康である。

これと同様に、日本人は外側から見た「状態」として民主主義をとらえる。

憲法が存在し、司法、行政、立法の三権に権力が分離され、普通選挙が行われて、、国民が選んだ人たちによって国会で法律が作られていれば、民主主義の国家であると日本人は考える。

もう一つの見方は、内側から見た健康である。

健康というのは、外側から見ただけではわからない。元気ハツラツで顔色も良く、ご飯もおいしく食べられたとしても、ひょっとしたら身体の内側では、脂肪が内臓にびっしりとへばり付き、高血圧で、血はドロドロになっているかもしれない。こんな状態であれば、けっして健康とは言えないだろう。適度な運動をして節制をこころがけ、適度な体重を維持し、体内では血がサラサラに流れて、はじめて健康と言える。その結果として、外側からみた血色の良さや、元気ハツラツで、おいしく何でも食べられるということなのである。

アメリカ国民の民主主義の見方はこれに近い。

アメリカ国民は民主主義を内側から見る教育を受けてきているのである。それはずばり言うと、民主主義の精神を学ぶということである。

アメリカ国民は民主主義の精神が国民一人ひとりに行き渡り、各個人がそれにしたがって行動することにより、はじめて健全な民主主義の社会が実現されると思っている。

彼らはその結果として、憲法や三権分立や議会政治があると考えているのである。

だからアメリカ国民は、議会のシステムや憲法、選挙制度といったことを学ぶ前に、民主主義のバックボーンにある思想や、民主主義社会にいたる歴史といったことを学ぶことがより重要だと思っている。

日本の民主主義とアメリカ合衆国の民主主義は表面上は似ているが、アメリカ国民にはあるべき姿の民主主義の風景が我々日本人とはまったく違って見えているのである。銃規制ひとつをとっても、日本人とアメリカ国民の民主主義の考え方が違うのは当然のことなのかもしれない。

我々日本人は高校生のころに、倫理社会(いまはこう言わないのかな?)で、日本国憲法や国会のシステム、三権分立の制度などを学ぶ。わずか5~6時間の授業でこれらのことを学習し、これが民主主義のすべてだと思っている。

片やアメリカ国民は、民主主義の精神がすべての国民に行き渡らせなければならないと思っている。だから彼らは小さい頃から歴史の中から民主主義の思想の変遷を教え、民主主義の精神を心の奥深くに植え込もうとする。

アメリカ国民が学校で子供たちに費(つい)やす民主主義教育の時間は日本の比ではない。

オジサンのブログ記事「歯止め」でも紹介したが、アメリカ国民は子供たちが幼稚園にあがる年齢になると、民主主義の思想が凝縮されているリンカーンのゲティスバーグの演説や、トーマス・ジェファーソンの独立宣言書などを暗唱させられる。そして高校生になるまで、ヨーロッパの民主主義にいたる歴史や、独立戦争における歴史を徹底的に繰り返し教えるのである。そうすることによって子供たちに民主主義の精神を注入していく。

アメリカ国民は、国民一人ひとりに民主主義の精神が根付くことによって、民主主義社会が健全に維持されていくと考えているのだ。

アメリカの大学には初等科の数学のコースがあるという。

大学に入学したばかりの生徒の中には簡単な代数の計算すらできない学生がいる。初等科の数学コースはそれを補うためのカリキュラムである。アメリカでは小学校、中学校、高校の算数や読み書きの時間を削ってでも、この民主主義の歴史を教えるためにこのような学力不足の生徒たちがでてきてしまうからだ。それくらい彼らは民主主義教育に時間をかけるのである。

以前、「徘徊する怪物」というオジサンのブログ記事に、アノーピさんというアメリカに在住の日本人の方からコメントをいただいたことがあった。アノーピさんにはハイスクールに通う息子さんがおり、息子さんは三権分立を提唱したモンテスキューの「法の精神」を学校の授業で読んでいるとおっしゃっていた。

日本ではモンテスキューは、「モンテスキュー」 → 「法の精神」 → 「三権分立」 という具合に、言葉の連想ゲーム的程度にしか学校で教えないと思う。「法の精神」を読ませる学校はほとんどないのではないだろうか。そんなに詳しくつっこんだら、日本では広く浅く知識を求められる穴埋め形式の大学入学試験に合格しなくなってしまうからだ。

アノーピさんがおっしゃるには、息子さんの民主主義教育はそれだけではない。民主主義の重要性を学ぶために、第二次世界大戦で命をかけて戦い、民主主義を守り抜いた退役軍人の慰問もしていると教えていただいた。このようにアメリカでは、日本では考えられないような膨大な時間をかけて、歴史の中から子供たちに民主主義の精神を教えるのである。

これはオジサンの経験からであるが、不思議なことに我々日本人であっても、彼らのように民主主義を民主主義の精神の中でとらえるようにすると、民主主義というものがまったく違って見えてくるのである。

このような民主主義の捕らえ方をすると、銃規制の問題だけでなくアメリカという国がいま世界でどのようなことをしようとしているかが見えてくる。それだけではない。今日本で起きている不祥事などが、実は民主主義の根底を揺るがす重大な問題であることがわかってくる。現在の日本は憲法を持ち、三権分立がなされ、議会政治が行われており、表面上は民主主義国家のように見えるが、実際には内側に流れる血液はドロドロで、内臓には脂肪がびっしり張り付いて、メタボリック症候群に陥っていることに気付くはずだ。

そこで本日は、みなさんといっしょに、アメリカ国民と同じように民主主義を民主主義の精神の中で見ていきたいと思う。

これによっておそらく皆さんにもアメリカ国民と同じ民主主義の風景が見えてくるだろうと思う。

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民主主義の精神がもっとも発揮された時代は、偉大なジョージ・ワシントンと建国の父たちが起こしたアメリカ独立戦争のときである。

だからアメリカ国民はこの時代の歴史を学校で何度となく繰り返し教わるのである。

このころのヨーロッパの国々の王様は強大な権力を持っており、絶対主義と呼ばれた時代であった。17世紀のイギリスの政治哲学者、トーマス・ホッブズはこの権力を聖書のヨブ記にでてくる伝説の怪物、リバイアサンにたとえるほど、当時の王様は強大な権力を持っていた。アメリカ13州はこの強大な権力を持っていた王様から独立を勝ち取ったのである。

民主主義の精神とはなにかをお話する前に、予備知識として、中世の後半から近代の初期までのヨーロッパの歴史の中で、このリバイアサンとも言える強大な権力者がどのように登場してきたかを簡単におさらいしておこう。

えっ、歴史は苦手だって!

大丈夫。オジサンも高校生のころは暗記科目が苦手で、特に歴史は及第点ギリギリだった。

大学入試に合格するためには細かなことを知らなければならないかもしれないが、民主主義のバックボーンを知るためには、そのように重箱の隅をつっつく必要はない。大きな流れを物語のように覚えておけばそれで十分。

それでは中世後半から近代初期までの歴史の物語を語ろう。

ローマ帝国が崩壊したあとのヨーロッパは分裂し、封建領主といわれる非常に多くの権力者たちが群雄割拠していた。そしてその封建領主のためにヨーロッパの人口の九割以上を占める農奴と呼ばれる人たちが土地を耕して農作物を作っていた。

農奴という言葉は世界史の授業で聞いたことがあると思うが、ほとんどの人たちが、農奴とは単純に農業をする奴隷と思っているのではないだろうか。農奴と奴隷は同じではない。

ここでちょっとアメリカに存在した奴隷と中世ヨーロッパの農奴との違いを述べておこう。

実はこの違いがあとになって歴史の流れの中で大きな意味を持ってくるからだ。

アメリカにいた奴隷は家畜と同じだと見なされていた。

だから主人は奴隷たちを意のままに扱うことができた。必要なければ売り払っても良いし、処分しても良かった。1980年代に50%という驚異の高視聴率をあげたルーツというドラマがあった。著者アレックス・ヘイリー氏の自伝的小説をドラマ化したものであった。オジサンと同じ年代か、あるいはそれ以上の世代であれば覚えているかもしれない。アレックス・ヘイリー氏の先祖であるクンタキンテという黒人が、西アフリカで奴隷商人たちに拉致されアメリカに連れてこられ、ある農園主に売られた。クンタキンテはキンテ族の王子で誇り高き戦士であった。奴隷である身分に耐えられず何度か脱走を企てるがいずれも失敗してしまう。そして農園主はこれ以上逃亡を企てないように、クンタキンテの片方の足の甲を切り落としてしまったのだ。こうしてクンタキンテは自由になることを諦め、奴隷として農園で働かなければならなくなってしまった。

その後、クンタキンテは種の保存のために、同じ農園で働く奴隷の女性となかば強制的に結婚させられ、そして女の子が生まれた。こうして奴隷の身ではありながら、愛する妻と娘の3人の幸せな生活を送ることになった。ところがその幸せな生活も長くは続かなかった。娘が成長し働ける年頃になると、農園主はクンタキンテ夫婦から娘を引き離し、市場で売ってしまったのである。

「なんてひどいことを!」って、多くの皆さんは思われるかもしれない。

しかし当時のアメリカでは、このような人身売買を非人道的と思う人はほとんどいなかったのである。

奴隷は家畜として見なされ、人としての一切の権利を持っていなかったからだ。

生まれたばかりの子犬や子猫を親から引き離して、ペットショップで売る感覚だったのである。皆さんもペットショップで売られている子犬や子猫を見て、「かわいい!」って思うことはあっても、「親から引き離されてかわいそう!」とは思わないでしょう。この当時のアメリカも同じ。奴隷が市場で売られても、それを哀れに思う人たちはほとんどいなかったのである。(もっとも現在のアメリカの多くの州では動物虐待であるということで、生まれたばかりの子犬や子猫を親から離してペットショップで販売することは禁じられている。いずれ近い将来に日本でも動物愛護の観点から子犬や子猫のペットショップ販売は禁止されるかもしれないが…)

ヨーロッパの農奴たちも不自由な身分であった。

土地に縛り付けられていたのである。

「お隣の封建領主様の方がやさしい!」からっていって、農奴たちは勝手に他の土地に行って働くことは認められていなかった。アメリカの奴隷たちと同様に農奴は封建領主の所有物であったのである。

ところがヨーロッパの農奴たちにはいくつかの権利が認められていた。

そのひとつは家族をばら売りされないということだった。

アメリカ開拓時代の奴隷にとってもっともつらいことは、愛する家族を引き離されることであった。だから南北戦争後、奴隷たちが悲惨な境遇(奴隷解放宣言のあとでも、元奴隷の地位向上政策は20世紀になるまで行われなかったため)の中で、彼らがまっさきにやったことは引き離された家族を捜し出すことであった。。

それに比べると、ヨーロッパの農奴たちは恵まれていた。

ヨーロッパの農奴たちはあくまで土地とセットと考えられていたので、封建領主であっても農奴たちの家族をばら売りすることはできなかったのである。もし封建領主がどうしても農奴を他の領主へ売らなけれっばならない場合は、土地と農奴の家族をセットで売らなければならなかった。

また、農奴たちは地代として収穫物の何割を封建領主に納めるというように決められていたので、残った収穫物を農奴たちは自由に処分することができた。

アメリカのまったく不自由な奴隷と違い、このように農奴たちには上記の権利が認められていたのであるが、このことがいずれヨーロッパの歴史を動かしていく要因の一つとなるので、こころに留めておこう。

さて、話しを封建領主にもどそう。

非常に多くの封建領主たちは限られたヨーロッパという土地の中でひしめき合っていたいたため、封建領主たち同士の争いごとが絶えなかった。

「隣の封建領主のところの家畜がオレのところの牧草を食べちゃう!」、「隣の封建領主のところを流れる川を堰き止めたので、オレのところに水が流れてこない!」なんて問題が起きていた。

ところがそれらの問題を仲裁してくれる人がいないので、即、実力行使にでたため、しょっちゅう戦争があちこちで起きていた。

そこで封建領主たちは彼らの中で力のある人を仲裁役として選ぶようになってきた。これがいずれ王様となり、封建領主は貴族となって王国を形成して行ったのである。

王様というと、皆さんは非常に強い権力を持った人と思われるかもしれないが、中世の王様はとても弱い立場にあった。ホッブズが言ったリバイアサンからはかけ離れた存在であった。なぜかというと、もともと王様は強い武力で周りの封建領主たちを力ずくでねじ伏せて王様になったわけではない。封建領主たちの中でちょっと大きめな荘園を持っている人が王様として選ばれたからだ。いわば村の庄屋さんのような立場であった。

王様と領主たちは主従関係を結ぶのであるが、この王様と家来の関係は、日本の戦国時代や江戸時代の殿様と家来の関係とは違っていた。

ヨーロッパの王様と家来である領主たちの関係は契約に基づいていた。

日本人の感覚からするとちょっと奇妙に思えるかもしれない。

彼らは詳細に記した契約書を作った。

たとえば、税金としての年貢は出来高の何割とか、戦争になったときは何人の兵隊を出すとか、こと細かに規定されていた。

だから、王様がお隣の王国と戦争をして、「あとちょっと家来が多く兵隊を出してくれれば勝てるのに~!」って思っても、契約以上の人数の兵隊を家来たちに要求することができなかった。あるいは王様の娘が結婚するので、「豪勢な結婚式をしてあげたいのだけど、家来たちはもうちょっと税金を払ってくれないかな~」って思っても、契約以上の税金を徴収することはできなかったのである。このように王様の権力は限られたものであった。

ところで王様と家来の関係が契約によると聞くと、「中世の時代の主従関係はずいぶんドライだったんだなぁ」って思う人がいるかもしれない。

しかし彼らの契約は必ず守られたということを記憶しておこう。

中世ヨーロッパには騎士道というものがあった。この騎士道とは契約によって決められたことはきっちりと履行するということである。ある意味では日本の武士道より信頼できるものかもしれない。

たとえばあだ討ち。

王様と家来の契約にあだ討ち条項があれば、王様が何者かに殺害されたとき、家来は必ずあだ討ちをおこなったのである。それに比べて日本では、戦国時代に主君を裏切って敵方につくことは日常茶飯事だった。日本の歴史上主君のあだ討ちをした例はわずかに二つ。忠臣蔵の赤穂浪士たちと織田信長のあだを討った豊富秀吉だけである。肉親のあだ討ちは数多くあったが、主君のあだをうつことは非常にめずらしいので後世に語り継がれる美談となった。

だから中世の主従関係は契約によって成り立っていたが、けっして希薄な関係ではなかったのである。

余談になるが、この契約という概念はじつは聖書からきている。

キリスト教の聖書をいままで読んだことがない読者の方たちは、聖書には人生の示唆に富んだ話や、愛に満ちた心やすらぐお話といった、ありがた~い言葉が書かれていると思っているのではないだろうか。

それはまったくの誤解である。

聖書は神様と人間の契約書なのである。

旧約聖書、新約聖書の「約」とは、契約のことを表している。旧訳聖書、新訳聖書ではないことにご注意。

特に旧約聖書の中ではこと細かに、神様が人間たちにしなければならないことを預言者を通して書いているのである。「出エジプト記」、「申命記」、「レビ記」といった章を読んでいただければわかるのであるが、祭壇の寸法から着る物、普段の生活の仕方から食べ物にいたるまで、やっていいこととやってはならないことを神様はビックリするくらい詳細に規定している。神様との契約とは、それらの言いつけを守れば神様は永遠の繁栄を保証してくれるが、その言いつけを守らない場合は、罰則として、一族の滅亡をもたらすというものである。

旧約聖書にはとくに古代イスラエルの民が神様との契約を破ったため、悲惨な歴史を歩まなければならなかったことが、これでもかこれでもかというくらいに書かれている。そのためヨーロッパの人々には、契約を守らないとどんなに恐ろしいことが起こるということが脳裏に焼きついたのである。

だからヨーロッパでは、単に人間同士の間に契約の概念が広がっただけでなく、

契約は絶対に守られなければならない、

という契約の絶対性が根付いたのである。そしてこの契約の絶対性が近代にはいって資本主義を生み出す土壌になっていくのである。このことはいずれ宗教ブログに戻したときにまたくわしくお話したいと思う。

さて、中世の王様と家来の関係はこのように契約に基づいた関係で、王様であっても強い権力を持っていなかった。

しかもこの時代のヨーロッパには伝統主義というものがあった。これは過去の習慣、風習は良くても悪くても、かならず守られなければならないというものである。このころになると、王様と貴族たちは定期的な会合を持っていた。これが後に議会となっていくわけであるが、そこでは新しい法律を作るわけでなく、過去の習慣や風習を確認しあう場で、法律は歴史の中から発見するものであったのである。だから当時の王様は会合(議会)でいつも貴族の不満と伝統主義の板ばさみに苦しんでいた。中世の王様はこのように中間管理職のような立場で、ホッブズがリバイアサンと呼んだ絶対的な権力を持つ王様とはかけ離れた存在だった。

ところが永遠に続くかと思われたこの中世の時代を、近代へ大きく動かす出来事がいくつか起きた。

ひとつは14世紀の中ごろに起きた黒死病(ペスト)の流行である。

黒死病は瞬(またた)く間にヨーロッパ中に広まり、多くの人々が死んだのである。この黒死病によりヨーロッパの人口の四分の一から三分の一が減ったと言われている。

この人口激減は結果として農奴の立場を強くすることになった。

封建領主たちは領地内で農奴が働いてくれないと食べていけないのであるが、農奴の人口が減ったため、農奴の機嫌を取らなければならなくなった。「少ない人数で悪いけど、もうちょっと残業して働いてくれないかな?」とかなんとかソフトに言って手なずけようとしたが、「じゃ、年貢の割合を下げろ!」って感じで、農奴たちは地代の引き下げなどを交渉し、相対的に封建領主たちの力は衰えていった。

もうひとつの出来事は11世紀ころから始まった数回の十字軍遠征である。

皆さんも学校の歴史で習ったと思うが、ヨーロッパ諸国はキリスト教の聖地であるエルサレムの奪還を目的に、トルコ帝国に軍隊を送り込んだのである。そこでヨーロッパ諸国が出会ったのはイスラム世界の圧倒的な文化の高さであった。もともと中近東にはギリシャ哲学が継承され、医学、数学、天文学などが発達していた。またトルコ帝国は世界貿易で栄えており、遠く中国の絹織物やインドの香辛料、あるいは美しい陶器などが持ち込まれていた。ヨーロッパ諸国の驚きは、あたかもブッシュマンがニューヨークへ来たときと同じ衝撃を受けたに違いない(この例えちょっ~と古いかな?)。そのようなわけで、十字軍が戦利品として持ち帰ったそれらの高い文化の品々はヨーロッパで珍重されたのである。

当然のことながらやがて、ヨーロッパの商人たちがアラブ諸国へ訪れるようになり、中東貿易が盛んになった。

そして貨幣経済が発達したのである。

この貨幣経済の発達は中世のヨーロッパを大きく変えることになった。

まずこの貨幣経済は、黒死病の流行により、相対的に立場の良くなった農奴たちに追い風となった。

いままで年貢を払ったあとの収穫物は、農奴たちが自由に処分できたのであるが、物々交換経済では、蓄積ができなかった(キャベツを蓄積しても腐っちゃうでしょう~♪)。貨幣経済の普及により農奴たちは貨幣によって富を蓄積することがはじめて可能となったのである。また農奴の中には商才に長けた者がいて、市場の価格が上がるまで待って農作物を売るようになり、大もうけをする農奴もいた。そして稼いだ貨幣を封建領主に渡して、自由になる農奴も現れてきた。

このようにして、封建領主たちは没落し、中世の封建制度が崩れていったのである。

この貨幣経済の発達によってもっとも恩恵を受けたのは王様だった。

もちろん王様も、元は封建領主のひとりであるので、黒死病の流行や貨幣経済による領土内の農奴たちの独立の被害をこうむった。しかしその損失を補ってなお有り余る恩恵があったのである。

それは貨幣経済の発達にともない財力を持った商人たちをバックに付けることが出来たからである。

当時は山賊や海賊がウヨウヨいた。

13世紀の後半にベネチアの商人マルコポーロは、法王の親善大使としてモンゴル帝国の皇帝フビライ・ハンを訪れた。17年間皇帝フビライに仕えたあと、マルコポーロがイタリアに戻るとき、フビライは黄金や絹織などの土産を持たせ、4艘の船と600人のクルーでマルコポーロを送り出した。

18ヵ月後にイタリアについたマルコポーロは悲惨なものであった。

帰路の途中で海賊や山賊に遭い、生き残った者はわずかに18人。黄金や絹織物はもとより、着ぐるみはがされ、乞食のようにボロ布をまとった状態でベネチアにやっとのことでたどり着けたのであった。

こんな具合に、ヨーロッパの商人たちは中近東への旅路で山賊や海賊の被害にあっていた。

封建領主たちは山賊や海賊を取り締まってはくれなかった。もともと封建領主たちは戦時中に雇う兵隊は、山賊や海賊出身者が多かったからだ。中世の軍隊は平時は山賊や海賊をして生計を立てていたのである。だから封建領主たちは最初から山賊や海賊を取り締まろうなんて思っていなかった。

そこでヨーロッパの商人たちは王様に保護を求めたのである。

「王様、どうぞ私たちの通商の安全を保障して下さい」とかなんとか言って、商人たちは王様にお金を献上した。

議会でいつも小うるさいことを言ってくる憎き封建領主たちが没落していく様を、「いい気味だ!」って思っていた王様は、この商人たちの申し出に飛びついた。

そして王様は商人たちの中東貿易の安全を守るために、商人たちから受けたお金で多くの兵隊を雇ったのである。

これが常備軍である。

当時の王様のみが財力を持った商人たちを味方につけ常備軍を持ったことの意義は大きい。これによって権力基盤が確固たるものになったからである。

皆さんも歴史の授業で「常備軍」という言葉は何度か聞いたことがあるでしょう。

でも、この常備軍を持つことの重要性は学校でくわしく習わなかったのではないだろうか。そこでもうちょっと常備軍を持つことの意義を補足しておこう。

常備軍を持つことの重要性は、織田信長の例を挙げればわかりやすいと思う

信長が戦国時代に天下を取れたのは、戦国武将で彼のみが常備軍を持ったからである。

中世のヨーロッパも日本の戦国時代も、富の源泉は土地だと思われていた。当時は通貨も流通していたが、多くの武士たちは農作物や米を生産できる土地をほしがった。だからお殿様は軍功のあった武将たちに土地を与え、武将たちは平時はその与えらた土地を耕して米などを作っていた。

戦国武将たちは百姓を兼務していたのである。

戦(いくさ)の時にのみ、クワやスキを刀にかえて出陣していた。

つまり当時の戦国武将たちは戦のプロとは言いがたかった。

これは勇猛で名高い武田軍も同じだった。

だから戦国大名たちは、戦功をあげた部下たちに与える土地を確保するために、つねに領土拡大に血眼になっていた。

そんな戦国大名たちの中で信長のみが土地にこだわらなかった。

彼は貨幣が将来、大きな富の源泉になることを見通していた。

そこで信長は商人たちを保護し、楽市、楽座の制度によってさかんに商業を奨励した。これによって貨幣経済が発達し、堺の町などは栄えたのである。

信長は豊富な財力を持った商人たちに献金させ、そのカネで軍隊のための兵士を雇ったのである。

信長の兵隊たちは土地を与えられたわけではないので、百姓仕事をする必要がなく、平時から戦の研究をし、かつ訓練をしていた。

つまり信長の持っていた軍隊はプロの軍隊だったのである。

プロとアマチュアの差は大きい。

このことを如実に証明したのが天下に最も近い戦国大名と言われていた今川義元との戦であった。

史上名高い「桶狭間の戦い」は、今川軍2万5千人に対し、信長軍はわずか数千人。

でも結果は、今川義元は首を取られ、信長軍の圧勝であった。

これほどまでにプロとアマの力の差は大きい。

人数的に十数倍の規模を持つ今川軍に信長が勝てた理由は、桶狭間で信長軍が今川軍に奇襲をかけたからだという説がある。それは歴史の事実かもしれないが、その背後にある歴史の真実をつかんでいない。信長の軍隊が平時に訓練をしているプロフェッショナルの集団であったからこそ、綿密な奇襲作戦を立て、迅速にそれを遂行できたと見るべきなのである。

社会人野球の優勝チームがプロ野球のどん尻のチーム(楽天?)と試合をしてもかなわないだろう。(たぶん…汗…野村監督頑張ってぇ~!!!)

中世の王様の軍隊も同じであった。

封建領主がそれまで雇っていた兵隊たちは、平時は百姓をしているか、あるいは山賊や海賊をしているならず者で、いざ戦(いくさ)になったときに統制が取れていなかった。それに比べて中世の王様の軍隊はプロフェッショナル。

王様の軍隊は封建領主たちが束になってもかなわない軍隊になったのである。

中世という時代に、商人たちの財力と圧倒的な軍事力を王様が手に入れたことは、大きな権力を手に入れたことを意味する。

ここでちょっと簡単に権力とは何かを補足しておこう。それによって当時の王様がどれほどの権力を持ったかがわかるからだ。

権力とは他者に対して支配し服従させる力を言う。

だからなにも権力とは国家のみが持つものではない。我々の日常にも権力は存在する。たとえば会社の上司は部下に対して業務に関し、支配し服従させることができるから、権力を持っていると言える。また親は小さな子供に対して親の言いつけとおりにさせることができるので、親は子供に対して権力を持っている。

それではこの他者を支配することのできる力の源泉はなにか?

このことを非常によく分析したのが、社会学者のアルビン・トフラー氏である。アルビン・トフラー氏によると、権力の源泉は3つに分けられるという。それをもっともよく説明しているのは三種の神器である。

三種の神器とは、テレビ、洗濯機、冷蔵庫のことではありませんぞ。それは日本の高度経済成長期の家電の三種の神器。念のため。

トフラー氏のいう三種の神器とは、本当の三種の神器。天皇家に代々伝わる三種の神器のことである。

天皇家の三種の神器とは、剣(つるぎ)、宝石、鏡のことである。

この三種の神器は、天皇陛下が崩御されるたびに、次の天皇陛下に譲り渡されるものである。昭和の天皇が崩御されたときも、宮中ですみやかに三種の神器の譲渡の儀式が行われ、平成の天皇へと受け継がれている。

実はこれはあまり日本人にも知られていないかもしれないが、この三種の神器は権力を象徴しているのである。つまり三種の神器の受け渡しは、崩御された天皇から次の天皇への権力の譲り渡しの儀式なのである。

三種の神器の剣、宝石、鏡はそれぞれ、物理的な力(暴力)、財力、知力を表している。そしてこの暴力、財力、知力こそ権力の源(みなもと)なのである。

こういうと皆さんも思い当たることがあると思う。皆さんの周りにいる権力を持った人たちというのは上記の三つの権力の源泉を1つ以上持っている人たちなのである。

ガキ大将がなぜ下の者を従わせることができるかというと、他の者たちより大きな腕力(暴力)を持っているからなのである。また親は小さな子供より大きな腕力、財力、知力を持っているから、子供を従わせることができるのだ。

国家はなぜ権力を持っているかいうと、警察という暴力装置を持っているからなのである。法に従わないものは、暴力という力によって強制的に人々を従わせることができるのである。

ところでトフラー氏によれば、この権力の源は時代とともにその重要性が、

暴力→財力→知力

というように移行していくという。

古代の時代では、権力の源泉は暴力であった。腕力の強い者にはより大きな権力があった。喧嘩や戦(いくさ)の強い、屈強な身体を持った男がリーダーになったのである。

ところが時代が変わり、産業革命がおこり、通貨が流通するようになると、腕力を持った者より財力を持った者が権力を握るようになった。銀行業を起こした中世ヨーロッパのフッガー家やメジチ家などは、一族の中から法王になる者やヨーロッパの国王になる者を輩出するほどの力を持っていた。

そして現代のコンピュータの登場により権力が新たな段階へ移行した。

大きな知力を持った者が大きな権力を握るようになってきたのである。

このことを象徴しているのが、ビル・ゲイツのマイクロソフトだ。

オジサンはコンピュータ音痴なので、皆さんの方が詳しいと思うが、マイクロソフトはウインドウズというコンピュータの基本ソフトを作っている会社である。工場を持たずプログラムを作る技術者たちの集まった会社であった。彼らはソフトを作りコンピュータ・メーカーへそのソフトを納める下請け業者のひとつであった。だから本来はコンピュータ・メーカーは顧客でありマイクロソフトに対し権力のある立場であるはずだった。「オレのところのコンピュータに基本ソフトを売りたいなら、これこれこのようなソフトを作れ!」って感じで、コンピュータ・メーカーはマイクロソフトへ強く命令できる立場にあった。

ところが実際はどうかと言うと、まったくその逆なのである。

マイクロソフトはウインドウズのバージョンをアップするたびに、IBM、アップル、デル、NEC、東芝といった大手のコンピュータ・メーカーに対し、アクセスタイムのこれこれのマイコンを使えとか、どこどこの部品メーカーのメモリーチップを使えといった指示をしているのである。つまりある面ではマイクロソフトはコンピュータ・メーカーを支配しているといえる。

知力を持ったものがより大きな権力を握る。

権力移行(POWERSHIFT)が起きているのである。

この権力移行はコンピュータの登場により、我々のまわりのいたるところで起こっている。このことを話し出すとこれだけで長~いブログになってしまうので、ここであえて止めておこう。我々の周りで起きている権力移行をもっと知りたい読者は、アルビン・トフラー氏のパワーシフト(POWERSHIFT)を図書館で借りて読んでいただきたい。1990年代にベストセラーになった本なので、多分邦語訳もあるのではないかと思う。

それでは話を中世の終わりに戻そう。

中世の終わりという時代は、物々交換経済から貨幣経済への移行期であった。そしてまだコンピュータを中心とする知識集約型社会は到来していなかった。つまりこの時代の権力の源泉は暴力と財力にあったのである。

そして商人たちの財力をバックにつけ、常備軍という強い暴力装置を持った王様は、この時代の最高の権力を身につけたということなのである。

さらにまたこの時代に王様の権力を決定付ける思想が生まれた。

国家の主権という概念である。

それまでの中世のヨーロッパには国家というものは存在していなかった。

国家の構成要素は、国土、国境、国民であるが、中世ではこれらが明確にされず混在していたのである。先ほど述べたように、中世では王様と家来の主従関係は契約に基づいていた。ところがAという家来はBという王様と主従関係を結びながら、Cという王様とも主従関係を結ぶことができた。またBという王様はDという王様と主従関係を結ぶことができた。つまり、どこからどこまでがBという王様の国土と国民なのか、またCの王様の国土と国民はどこまでなのかという明確な線引きができなかったのである。

したがってこの時代までは国家は存在しなかった。

中世の終わりに封建領主が没落し国王の権力が強大になり、重複する主従関係がなくなった。そのため領土、国境および国民がようやく明確になり、近代において初めてスペイン、イギリス、フランスといった国家が誕生してきたのである。

そして国家が生まれると同時に、国家には主権があるという考えも生まれた。

フランスの思想家、ジャン・ボダンは、「国家には永続的にして拘束を受けない絶対の権利がある」と、提唱した。国家は他国の干渉を受けず、自国のことを自国で決定する権利があり、国家の主権の主体は国王にあるという考え方である。

この思想はヨーロッパ中に広まり当時の国際法となったのである。

この国家の主権という概念は国王の権力を増大させることになった。

国家には主権があり、その主権は誰も干渉することが出来ない。そしてその主権の主体は国王にある。つまり簡単に言うと、国土および国民を王様が所有し、その所有物をどのようにしようが王様の勝手でしょってことだ!

ベルサイユの栄華を極めたルイ14世の「朕は国家なり」という言葉が当時の国王の権力の強さをよく表している。

国王はここにおいて絶対の権力を手に入れたのである。

この絶対君主となった国王の前では、国民は吹けば飛ぶような将棋の駒どころかチリほどの重みもなくなった。どんなに税金を課せられようが、ムチャクチャな徴兵を受けて遠くの戦場へ送られようが、国王の思いのまま。文字とおり、国民を煮て食おうが焼いて食おうが、王様の勝手。国民はなにひとつ文句を言えなくなってしまったのである。

このようにして権力の怪物、リバイアサンがついに歴史に登場したのである。

さて、中世後半から近代初期の絶対主義国家の誕生にいたるヨーロッパの歴史をざっと見てきた。それではアメリカ13州がいかにこの恐ろしいリバイアサンとも言うべき絶対君主から独立したかを話そう。

えっ!話が長くって疲れたって!

う~ん、これから先がもっとも大切な話になるのだけど…。もし、疲れた読者がおられれば、この先は日を改めて読んでいただけるだろうか。なにせこのあとの話をわかりやすくするために、ヨーロッパの歴史を復習したのですから。

ここで読むのを辞めてしまうということは、レストランで前菜だけ食べてメインディッシュに箸をつけないで帰っちゃうようなもの。もったいないでしょう~!

このあとの部分を読んでいただければ、皆さんもアメリカ国民と同じ民主主義の風景を見ることができ、銃規制がアメリカで徹底できない理由や、アメリカがなぜ世界で無謀ともいえる軍事行動を展開している理由がわかってくるのですから。それだけじゃありませんぞ!今の日本の民主主義が健康に見えて、実は内部ではメタボリック症候群をわずらい血液はドロドロの状態で、いつ脳梗塞や心筋梗塞が起きてもおかしくない状況になっているのがわかるのです。

だからもうちょっとがんばって読んでね。

それじゃ、ジョージ・ワシントンと建国の父たちが絶対主義国家のイギリスから独立したころの話をしよう。

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皆さんも高校のときの世界史で習ったと思うけど、アメリカ13州が本国イギリスから独立した原因は税金問題だった。

当時のイギリスはアメリカ大陸でのフランスとの戦い(フレンチーインディアン戦争)で財政が逼迫していた。時のイギリス国王はジョージ3世。彼はそのコストを13州に払わせるため多くのものに税金をかけたのである。

アメリカ13州はイギリス本国の議会に代表者を一人も送り込んでいなかった。だから彼らには税金に対する不満が溜まっていた。NO TAX WITHOUT REPRESENTATION! (代表なきところに課税なし!)という気持ちが強かったのである。

そして課税される税金が商業上の印紙貼付の義務付けだけでなく、砂糖からお茶といった日常品にまで及ぶにいたって、アメリカ13州はついに、「ふざけんじゃねぇ!」って感じで独立を決意した…

…と言うわけではなかった。

事はそう単純ではない。

皆さんも歴史の授業で、「ボストン茶会事件」という言葉を聞いたことがあると思う。イギリス本国はアメリカ産の紅茶に高い税金をかけ、インドの安い紅茶を13州に売りつけて大儲けをしようとした。これに対してアメリカの植民地人の不満はいっきに爆発し、港に停泊していた東インド会社のお茶の積荷を海に投棄してしまったという事件である。我々はこの事件が発端となって各地で戦闘が勃発し、アメリカ独立戦争へつながっていったと習ってきた。

ところがこの時点では、ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソン、ジョン・アダムスといった多くの13州の識者たちはイギリス本国からの独立には消極的であったのである。外交官であったベンジャミン・フランクリンなどはこの時、イギリス本国との軍事衝突を避けるため奔走していた。

ジョージ・ワシントンと建国の父たちは、イギリス本国からの独立をためらっていたのである。

なぜか?

強大なイギリス軍を恐れていたからである…

…と、言うことではない。

確かに当時のイギリスは超がいくつも付いてしまうくらいの超大国。「けっして太陽が沈まない帝国」と言われるほど世界中に植民地を持っていた大国であった。イギリス本国から見れば田舎の村のような13個の植民地が戦っても、はたして勝てるだろうかという疑問があった。

しかし、それ以上に彼らがイギリスからの独立をためらう大きな理由がふたつあった。

ひとつは絶対君主に逆らうことが「神の摂理」に反することではないかという恐れであった。

先ほど中世後半に登場した国王の権力を決定付けたものとして、国家の主権という概念をお話した。16世紀の思想家、ジャン・ボダンという人が、「国家には永続的にして拘束を受けない絶対の権利がある」とし、その主権の主体は国王であると唱えた。

彼と同時期にやはりフランスの思想家で、国王の権力を磐石(ばんじゃく)にした人物がいた。ロバート・フィルマーという人だ。

ロバート・フィルマーは国王は国家の主権を神から授かっていると提唱した。

彼の主張はこのようなものだった。

聖書の創世記では、神は天と地を創造されたあとに、この世のすべての動物や植物を作られた。そして人類最初の人であるアダムを作られる時にこう言われた。 ”Have many children, so that your descendants will live all over the earth and bring it under their control (産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這生き物すべてを支配せよ。)『創世記第一章28節』”

つまり聖書ではアダムはこの世のすべてを神から授かり、その支配権はアダムの子孫に継承されるということである。そしてロバート・フィルマーは国王こそがアダム直径の子孫であり、国王がすべての支配者であることは神から授かったものであるので、王権は神聖にして冒(おか)すべからざるものであると主張した。

これを王権神授説という。

この王権神授説は当時のヨーロッパで自然に受け入れられた。

なぜかというと、若干の例外(古代ギリシャの都市国家アテネと初期ローマの共和制)はあるが、ヨーロッパでは王様のいない国はそれまで存在しなかったからだ。

今でこそ我々は王様のいない国が多数この地球上にあることを知っている。むしろ王様と国民を意識して生活している人は少ないだろう。だから王様のいない国を想像することは容易だ。

ところがこのころのヨーロッパの人々は王様のいない国など想像もつかなかったのである。夢想だにしなかったと言ってもいい。いつの時代でも、国が存在すれば王様が存在していたのだから。王様がいて国があるという感覚だろうか。

だから王様がいるということは自然のことであり、それは神の摂理であるというフィルマーの考え方は人々に自然に受け入れられたのである。

そんなわけで、どんなに酷い圧政を布こうが、武力と財力の大きな権力を握り、かつ国王は神聖にして冒すべからずという神がかり的なオーラを身につけた絶対君主に逆らおうと思う者はイギリス国内にはいなかったのである。

これは遠く離れたアメリカ13州も同じだった。

アメリカ大陸に初めて渡ったピルグリム・ファーザーズといわれる人たちは、イギリスで迫害を受け新天地へ逃れてきた清教徒と呼ばれる人たちである。このことからわかるように、アメリカ13州の人たちは熱心なキリスト(プロテスタント)教徒の子孫たちなのであった。

そんな敬虔なキリスト教徒にとってもっとも恐ろしいことは、神の御心(みこころ)に反した行いをして「救済」を受けられないことであった。我々無宗教の日本人には彼らが感ずる恐怖は理解しがたいと思う。このキリスト教における救済とはいったいどういうものなのかは、いずれ宗教ブログを再開したときに詳しくお話したい。その時に初めて彼らの恐怖の度合いがわかると思う。それまではちょっと我慢していただいて、ここでは救済を受けられないことは彼らにとって死ぬことよりも恐ろしいことであったということだけを覚えておいてほしい。

したがってジョージ・ワシントンと建国の父たちも敬虔なキリスト教徒であったから、彼らが国王に反旗をひるがえして独立戦争に踏ん切りがつかないのは皆さんにも理解できると思う。

彼らにとってこのロバート・フィルマーの王権神授説はそれほど巨大な壁であった。

そしてもうひとつ、ジョージ・ワシントンと建国の父たちがイギリスからの独立をためらう理由があった。

それは仮に国王を排除できたとして、その後にどのうような国を作ってよいかというビジョンがなかったことである。

なんども繰り返すが、それまでのヨーロッパには王様のいない国はなかった。だからだれも王様のいない国はどのようなものであるべきかという理想の姿を思い浮かべることができなかった。はたして王様のいない国など上手くいくのだろうか?彼らは王様のいない国家作りに不安を感じていた。

このビジョンのないことが白日の下に明らかとなった事件が本国イギリスで起きていた。

ジョージ・ワシントンと建国の父たちがイギリスからの独立を決意する120年前に起きた清教徒(ピューリタン)革命である。

この清教徒革命は神の前の平等をスローガンに迫害を受けていた清教徒たちが起こした革命で、当時の国王チャールズ1世を公開処刑し、清教徒主導の議会政治を行ったというものである。

ところが、国王の首をちょん切ったまではよかったが、議会内では各派閥が権力闘争を繰り返したため、清教徒革命を率いたクロムウェルという軍人が独裁制を布き、反対派の人々を粛清し恐怖政治を布いたのであった。結局、クロムウェルが病死したのち、独裁制に懲りた一般市民たちは、「やっぱり、王様がいたほうがいいや!」って感じで、亡命先からチャールズ1世の息子チャールズ2世を呼び寄せて王位につけた。チャールズ2世はクロムウェルの妻子や革命の首謀者たちを逮捕して処刑し、この無政府状態ともいえる清教徒革命後の混乱を収拾したのであった。

王様を排除した後の社会はどのようなものにするべきかというクロムウェルたちのビジョンの欠如が、清教徒革命後に混乱をまねき王政復古につながったと言えるだろう。

以上2点。

王権神授説と王様のいない国家はどのようなものであるべきかというビジョンの欠如。このふたつの問題が巨大な壁のようにジョージ・ワシントンと建国の父たちのまえに大きく立ちふさがっていた。

そこで彼らはその答えを歴史に求めたのである。

そして歴史の中に埋もれかかっていたある一人の人物と出会ったのである。

運命的な出会いであったと言っていいだろう。

この人物こそ難攻不落と言える王権神授説を打ち砕き、王様のいない国家は如何にあるべきかというビジョンを彼らに与えてくれる人であった。

その人物の名前はジョン・ロック。

ジョージ・ワシントンと建国の父たちの時代からちょうど100年前に存在していた17世紀のイギリスの政治哲学者だ。

ジョージ・ワシントンと建国の父たちがジョン・ロックと出会えたことは、人類の歴史において運命的な出会いであった。なぜなら彼らがジョン・ロックに出会ったことによって、その後の世界は大きく変わっていったのだから。

本日、長々とヨーロッパの歴史などを書いてきたが、実はこのロックという人物の思想を皆さんにお話したかったからなのである。

なぜロックの思想をお話しするのにヨーロッパの歴史を語ったかというと、このロックの思想は大きな歴史の流れの中で捉えないと、その本当の真価が伝わらないからなのである。

ジョン・ロックという名前は高校の歴史の授業で皆さんもお聞きになったことがあるだろう。おそらくロックという名前から、ロック→統治論→社会契約説、というように、言葉の連想が浮かぶのではないだろうか。しかしその思想についての歴史的意義というものをはっきりと認識している人は案外少ないのではないかと思う。

それは当然のことなのだ。

日本の歴史の教科書では、大学入試の穴埋め問題対策だろうか、広く浅く歴史の出来事を扱っているので、肝心な歴史の事件についての考察の深さが足りないからなのである。日本の歴史教科書にはロックについての記述はせいぜい2~3行くらいの記述しかない。ところがアメリカでは重要な歴史的出来事にはものすごい時間をかけて子供たちに、その歴史的背景や歴史的意義を教えるのである。特にロックの思想については日本人の想像を絶するほどの時間をかけて教育する。

冒頭、アメリカ国民は民主主義の精神を膨大な時間をかけて子供たちに教えると述べた。

実は民主主義の精神とはロックの思想のことである。

彼らは子供たちが幼稚園に上がる年になると、このロックの思想が凝縮されたリンカーンのゲティスバーグの演説やトーマス・ジェファーソンの独立宣言書などを暗記させる。そして高校になるまで何度も繰り返し教え込むのである。卒業後は国家的なイベントなどで繰り返しロックの思想を聴衆にリマインドする。AFNの放送などを聞いていると、時たまショート・ヒストリーという民主主義の歴史が流される。ほとんどがロックの思想に関してのものだ。

これほどまでにジョン・ロックの思想についてアメリカ国民は時間をかけて子供たちの心に深く植えつけようとするのである。

一方、日本ではロックについては、歴史の教科書の中でわずか2~3行程度の記述ですませている。

このロックに関しての認識の違いが、日本人とアメリカ国民の民主主義の捕らえ方の決定的な相違を作り出しているのである。

我々日本人の目から見ると、なぜアメリカは断固たる銃規制を行わないのかとか、あるいはアメリカはなぜ無謀ともいえる軍事行動を世界で展開しているのかがわからない。ところが逆にアメリカ国民から見ると、アメリカ国内であれば暴動が起きてもおかしくないような民主主義を危うくするような事象が日本では平然と行われていたりするのである。これらはすべてロックの思想を認識しているかどうかの違いから生じている。

そこで本日はアメリカ国民と同じ民主主義の風景を見ていただくために、このロックの思想についてお話したいと思う。

ちょっと(いや、かなりかな?)長くなってしまったので、疲れた読者はこの続きは明日また読んでね。絶対に最後まで読んでね~。

それじゃ、ロックという人がどのような人物で、どのような思想を持っていたかを話そう

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ジョン・ロックは1632年にイギリスで生まれ、オックスフォード大学で医学と哲学を学んだと言われている。彼が10歳のころに清教徒(ピューリタン)革命が始まり、17歳のときにチャールズ一世が公衆の面前で処刑された。そして彼が28歳のときにクロムウェルの死をもって革命が終わり、チャールズ2世が即位し王政復古が行われた。

このように彼は多感な青少年時代を革命の混乱のなかで過ごしたのである。

海を隔てたお隣のフランスでは、太陽王と言われたルイ14世が君臨しており、絶対主義の絶頂期を迎えていた。イギリスでも革命に懲りた人々が王政を望み、それに加えてフランスからの王権神授説がイギリスに入ってくるにいたり、いよいよイギリスの絶対王政は強まっていったのである。

そんな絶対主義まっただ中で、若きジョン・ロックは疑問に思った。

「はたして本当に国家の主権は国王にあるのだろうか?」

そこで彼は、「国家とはなんだろうか?」という根本的な問題から考え始めた。

彼は国家とは何かということを考えるにあたって、国家のできる前の状態を想像してみた。

国や社会などという複雑な人間関係ができるずっとずっと前のこと。そこで暮らす人々は自由であったはずだ。人々が不自由になったのは社会ができ、ルールや伝統などに縛られているからだ。もともと社会や国が出来る前は、身分の上下などというものはなく、すべての人々は平等で自由であったはずである。このようにロックは考えた。

ロックはこの平等で自由であった人々を「自然人」と呼び、自然人が生きていた状況を「自然状態」と呼んだ。

ロックの理論のすごいところは、複雑な社会現象をこのように抽象化したということにある。

社会といっても千差万別。イギリスのように伝統的に議会の強い国もあれば、フランスのように絶対主義が強い国もある。また社会を構成している人々は弁護士や医者のようなエリートもいれば、商人もいるし、貧しい農民だっている。これらの個々の事象を個別に扱っていては「木を見て森を見ず」ということになり、そこにある真実を見抜くことができない。だからロックは思い切ってディテールをすべて捨て去って、対象となるものを抽象化したのである。

抽象化することによってロックの思想は科学となり、普遍性を持ったのである。この普遍性こそが、時を越え国境を越えてアメリカに渡り、アメリカの独立を成功させた大きな要因だ。

自然科学をたとえに出せばわかりやすいかもしれない。。

たとえば、幾何学。

幾何学でいう点と直線は抽象化されたものである。

点の定義は大きさがなく場所のみを示すものであり、直線の定義は太さがなくまっすぐで長さだけを示すものである。ところが現実の世界には、大きさのない点など存在しないし、まっすぐで太さのない線など存在しないのである。ミリ単位で見れば点にはかならず面積はあるし、直線を描いたってどこかで曲がっているし、太さもある。それらの詳細をいちいち考慮していたら、幾何学の問題は解けない。それらのディテールを省略して、点や線を抽象化することによってはじめて、巨大な建造物である超高層ビルやダムなどを作ることが可能となるのである。

数学もそうだ。

ゼロや負の数。

この世にはゼロや負の数なんて存在しない。八百屋に行って、「大根マイナス一本下さい!」って言ったて、八百屋のオヤジは???ってことになっちゃうでしょう。

でも、ゼロや負の数、あるいは虚数なんて実際の世界にはないことを抽象化することにより、人類はロケットを月面に到着させたりして、我々の住むこの宇宙を解明してきたのである。

ロックの場合も同じだ。

人間というのは集団で暮らす動物だ。太古の昔に我々の先祖が洞穴で暮らしていたころにはすでに群れをなしていた。そこには当然一部族としてのルールや身分の差はあったろう。自然人や自然状態などというものは現実には存在しないのである。

しかしロックは自然科学と同様に、あえて人間や社会を抽象化することによって国家とは何かを解明しようとしたのである。

彼の理論をさらに続けよう。

自然人は自然状態で土地を耕し種をまいて収穫して暮らしていた。そこでは国家も社会もなくすべての人は平等で自由であった。ところが時代が経るにつれて人々は社会および国家の必要性を感じるようになってきた。なぜかというと、犯罪が増えてくるからである。

人は個々の性格を持っている。Aという自然人はとても働き者で、朝から晩まで働き通し。かたやBという自然人はグータラで昼間から仕事もせずにブラブラしている。当然そこには貧富の差が生じてくることになる。やがて勤勉でないものの中から窃盗や強盗などをする者たちがでてくることになった。

そこで人々は集まって社会をつくり、人々が安心して生活できるためのルールを作った。

他人から物を盗んではいけない。人を殺してはいけない…などなど。

ところが、そんなルールなんて知ったことか!って感じの人もいて、ルールを作っただけでは従わない人も中には出てくる。

そんなわけで、人々はルールを従わせるための社会的権力を作ることにしたのである。

これが国家である。

国家とは本来人々の合意に基づいて作られたもので、国家の権力は人々との契約によって委託されたものである。王様が権力を持っているのは、神から与えられたものではなく、国民との契約によって権力を行使する権限を与えられているにすぎないのである。

だから国家の主権は王様にあるのではなく国民にある。

そして国家の任務はこの国民との契約に基づき、国民の生命、財産、自由を守ることである。

ロックはこのようにして、人は生まれながらにして自由で平等であり、国家の主権は国民にあり、そして国家の存在目的は国民の生命、財産、自由を守ることであることを証明して見せたのである。

これ、すごいことだと思わないか?

今でこそ我々は民主主義の世の中に育ってきたから、すべての国民は自由で平等であると言われても驚かない。それが当たり前になっているから。ところが、ロックの生きた時代は絶対主義の絶頂期だ。国王の権力は神から授かったものであり、王権は神聖にして冒すべからずというものであった。不自由、不平等、身分の差は当然のことと思っていた。国家の主権が国民にあり、人々は生まれながらに自由で平等であるなんて誰も想像もつかない時代だったのである。

ジョン・ロックの生きた時代を考慮した場合、ロックがこのように考えたことはまさに奇跡であった。

ロックの理論はさらに続く。

国家権力は国民が作ったものであるから、国民に奉仕するためのもの。ところが国家権力は放っておくと肥大化し暴走する。だから国民の代表者を議会に送り、真の国民の国民による国民のための政府を作って、政府の運営を監視しなければならないと唱えた。

しかしながら、それでも権力が暴走する可能性がある。

その場合はどうするか?

ロックは人々には国家との契約を改廃する権利があると言う。

それは抵抗権と革命権である。

もともと国家は国民との契約を結んで誕生したものであるから、もしその国家が契約違反をするのであれば、国民には契約を破棄し、新しい契約を結びなおす権利があるのである。

このロックの思想を社会契約説という。

ジョージ・ワシントンと建国の父たちが求めていたのは、まさにこのロックの社会契約説であった。

ジョージ・ワシントンたちはこのロックの社会契約説によって、王権神授説を否定し、イギリスからの独立が正当化され、かつその後の社会をどのように作ればよいかという指針を得ることができたのである。

ロックのこの社会契約説は燎原の火のごとくアメリカ大陸に広まった。

アメリカ13州の人々はロックの社会契約説を本気で信じたのである。独立戦争が勃発した直後は13州の寄り合い所帯の軍隊は強大なイギリス軍に押されっぱなしであったが、思想の力は強い。ロックの描いた世界を実現したいという思いが、最終的にこの独立戦争をアメリカ13州に勝利をもたらしたのである。

我々は歴史の時間にこのアメリカ13州のイギリスからの独立の出来事を「アメリカ独立戦争」と習ったが、アメリカのハイスクールの歴史の教科書ではこの出来事を、

AMERICAN REVOLUTION(アメリカ革命)

と呼んでいる。あくまでもロックの主張する「革命権」の行使なのである。

17世紀にロックがイギリスでこの社会契約説を発表したとき、すぐに「ロックの思想はすごい!」とはならなかった。ほとんどの人々は、ロックの抽象化した自然人や自然状態は実際にはあり得ないことで、社会契約説など「絵空事」と批評したのである。

ところが、ロックが社会契約説を唱えた100年後の世界では、ロックの社会契約説はもはや単なる仮説ではなくなった。アメリカ合衆国の誕生はロックのシナリオ通りに行われたからである。アメリカ合衆国は人類史上初めてロックの社会契約説に基づいて作られた人造国家となったのである。

その後、ロックの思想はヨーロッパにもどりフランス革命をも導いた。

17世紀の大事件と言えば、アメリカ合衆国の誕生とフランス革命だが、この二つの事件はロックがいなければ実現されなかった。

日本の政治学の泰斗(たいと)、丸山真男教授はロックについて、

「17世紀に身を置きながら18世紀を支配した人」

と評したが、まさしくロックの思想はジョージ・ワシントンと建国の父たちに出会うことによって、その後の18世紀の世界を大きく変えたのである。

現在、世界の三分の一くらいの国々が民主主義を標榜している。それらの民主主義の国々には憲法がある。そしてそれらの憲法には必ずロックの思想が盛り込まれている。もしロックの思想が盛り込まれていなければ民主主義ではないと言っていいほどだ。日本国憲法も例外ではない。1990年代に相次いで社会主義、共産主義国家が崩壊して行った現在、民主主義化していく国は今後とも増えていくだろう。ロックの思想は21世紀の世界をも支配しようとしているのである。