「死ぬ」よりも恐ろしいこと
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オジサンの知り合いにオマール・カーンさんというバングラデシュ人がいた。
カーンさんは日本の大学で学び、卒業後はそのまま日本に留まってインド向け専門商社へ就職した。オジサンと知り合ったのはこのインド向けの仕事を通してであった。
そのカーンさんから、「かいちゃん、今度インド・レストランをやりたいと思っているのだけど、いっしょにやらないか?」という話を持ちかけられた。いまから15年くらい前の話である。
カーンさんは以前から日本でインド・レストランをやりたいという夢があったようで、そのために貯金をし綿密な計画を練ってきたのであるが、どうしても資金面で不足があるようで、親しくしている人たちに共同経営を持ちかけているのだった。カーンさんは人をだますような性格ではないし、働き者で実行力があることは仕事の付き合いからわかっていた。また企画書なども良く出来ていて、綿密にコスト計算もされており、実現性の非常に高いものであることがわかった。そこでオジサンはこの話に乗ってみようかという気になった。
しかし、オジサンが出資できる額とカーンさんの預金を足しても、まだ少し足りない。
するとカーンさんは、「かいちゃん、あとひとり信頼のできる人がいる。」と言った。
その信頼できる人とは、山本さんという自動車修理工場の社長さんで、カーンさんの古くからの知り合いだとのこと。さっそく二人でレストラン開業のための出資をお願いするため、その社長さんを訪ねることにした。
会ってみると、山本さんは50歳前後で、偉(えら)ぶるところがなく、気さくで感じの良いひとであった。
山本さんは中学を卒業してから単身東京に出てきて、苦労の末自動車修理工場を経営するまでになった人だそうだ。会社経営が軌道に乗ってからは、従来したかった勉強もはじめ、英語に関しては独学で英検3級を取るまでになった努力の人である。また勉学のかたわら、海外からの留学生を援助するボランティア活動などもしていた。カーンさんとは彼が日本の大学に通っているころからのお付き合いだという。
「ぼくはこう見えても結構国際人なんですよ!」
と、山本社長はおっしゃられて、国際交流ボランティアの会合や知り合った人たちと撮った写真のアルバムなどを見せていただいた。海外の人たちと交流しているということが山本社長の自慢のタネのようだった。
レストラン出資の件も、具体的に詳細までは話し合わなかったが、「ぼくのできる範囲で協力はするよ」とおっしゃられていたので、感触はよかった。うまくいきそうだ!
そうこうしているうちにお昼時になり、山本社長が外で食事をご馳走してくれるという。
「この近くに繁盛しているメキシコ料理店がある」と、山本社長は言った。
このメキシコ料理店は店構えは小さいながらも、国税局が査察に入ったほどの盛況ぶりだという。
「インド料理とは違うかもしれないが、君たちの勉強になるだろうから、行ってみよう!」と社長はおっしゃられた。
なるほど、そのメキシコ料理店の前には客が行列を作っている。すごい繁盛ぶりだ!
順番を待って山本社長お薦めのそのメキシコ料理店へ入った。
メキシコ料理といっても昼の定食は一品だけ。熱した鉄板製のお皿に、なにやら中華丼の具のようなとろみのかかったものを入れただけのとってもシンプルなもの。それにご飯がつく。それでもジュージューとおいしそうな音とこうばしい香りがしてくる。うまそうだ!さっそく定食三つを注文した。
1分もたたないうちに、さっと料理が出てきた。
ジュージュなっているその中華丼のような具を口に入れてみた。うまい!ちょっと辛味のかかったなんともいえない味だ。ご飯とよく合う。一品料理で時間がかからず、しかもおいしそうな音とこうばしい香り。客の回転率もよく、儲かるはずだ。山本社長が我々をここに連れてきた理由がよくわかった。
本来であればここでご馳走になって、山本社長が機嫌のいいうちに、具体的な出資のお願いをして帰れるはずであった。
ところがここで大きな問題が起きた。
カーンさんがこの山本社長お薦めの自慢の料理を食べられないのである。
そのメキシコ料理には豚肉が使われていたのであるが、カーンさんはイスラム教徒だったのである。
ご存知の読者も多いと思うが、イスラム教の聖典・コーランでは豚肉を食することを禁じているのである。
以下はその時のカーンさんと山本社長の会話。
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カーンさん: 「社長、すみません。私はイスラム教徒なので豚肉は食べられないのです。」
山本社長: 「じゃ、豚肉の部分は食べずに、その汁だけでもご飯にかけて食べてごらん。日本人が好む味がわかるよ。とても勉強になるよ。」
カーンさん: 「社長、豚肉を使っている料理はいっさい口にしてはいけないのです。」
山本社長: 「なにも死ぬわけじゃないんだから、そんな大げさな。ちょっとだけでいいから舐めてみたら。本当においしいんだから。イスラムの神様もちょっとくらいなら許してくれるだろう?」
カーンさん: 「・・・・・・・・」
そのうちだんだん山本社長の機嫌が悪くなってきてしまった。
山本社長: 「オレも自動車修理会社を命がけでやってきた。レストランを経営するのも命がけでやらないとダメだ。なにも豚肉を食べろとはいっていない。味の勉強のために汁をちょっと舐めてみたらといってるだけなんだ。命がけでやればできるでだろう?それくらいもできないのか?」
カーンさん: 「・・・・・・・・」(いまにも泣きそうな顔)
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このあとなんとか食べさせようとする山本社長がカーンさんを責め立てるのであるが、結局、カーンさんはこのメキシコ料理にはいっさい箸をつけることはなかった。当然山本社長はカーンさんのレストラン経営の姿勢を疑うことになり、出資をしてもらう話はうまくいかなかったのである。
今回なぜカーンさんの話からしたかというと、読者の皆さんに私たち日本人の宗教観とイスラム教徒の宗教観の違いを体感してもらいたいからなのである。
ここで皆さんに質問したい。
もし読者の皆さんがイスラム教徒と仮定して、カーンさんのようになにか実現させたい夢を持ち続けていたとしよう。たとえば皆さんが英語の勉強のため外国に留学したいと夢見ていたとしよう。そんなとき豚肉を使った料理が出てきて、ちょっと舐めたらその夢を叶えてあげようと誰かが言ったとしたら、皆さんはどうするだろか?
多少舐めちゃってもいいかな…なんて思わないだろうか。
もっと極端な例を出そう。
もしみなさんがイスラム教徒で、暴漢によって家族全員が捕らわれたと仮定する。もし豚肉料理を食べないと家族全員を殺すと脅されたらどのように行動するだろか?
愛する家族を救うためなら、ちょっとだけなら食べちゃおうと思わないだろうか?
実はこれはむかし十字軍がエルサレムに進攻した際に、実際に現地のイスラム教徒に対しておこなった拷問なのである。
あるイスラム教徒の男が妻と娘といっしょに十字軍に捕らわれてしまった。そして十字軍兵士によって彼は豚肉料理を差し出され、食べないと妻と娘を刺し殺すと脅されたのである。
その脅しに対してその男はどうしたか?
答えは、その男は目の前で妻と娘が惨殺されても豚肉を食べなかったのである。
日本人的感覚から言うと、「なんて、薄情な奴なんだ!」って、思われるかもしれない。
しかし、それほどイスラム教徒にとって戒律を守ることは絶対なのだ。
自称「国際人」の山本社長が、「死ぬ気になれば食べられるだろう」と言ったが、それは間違っている。
自分だけでなく、たとえ愛する家族が死ぬことになろうが、戒律を破ることはできないのである。
いやむしろイスラム教徒にとっては「死」は重要なことではない。彼らは死などさほど恐れていない。
それよりも恐ろしいのは戒律破りなのである。
彼らにとって戒律破りは死ぬことよりもはるかに恐ろしいことなのだ。
なぜ彼らにとってそれほどまでに戒律破りが恐ろしいのか?
それを知るためにはイスラム教の教義を知らなければならない。
ちょっと長くなって恐縮だが、もうちょっとがんばって読んでもらいたい。簡単にイスラム教における教義を説明しよう。
イスラム教には六信(イマーン)というものがある。
これはイスラム教徒として信じなければならない6つの要件で、イスラム教の基本中の基本となる教義だ。それらは ①アッラーを信じること ②アッラーの天使を信じること ③アッラーの経典を信じること ④アッラーの預言者を信じること ⑤最後の審判を信じること ⑥天命を信じること
この六つのことを完全に信じきることができて、はじめてイスラム教徒となれるのである。
今回の宗教シリーズでは、後日あらためてイスラム教について詳細を説明するので、本日は項目5の最後の審判についてだけお話する。
イスラム教ではキリスト教と同様に終末思想というのがある。
それはいつだかわからないが、いずれ必ず世界の終わりがやってくるというもの。
ある日突然に天使が降りてきて、ラッパを2度吹く。そうするとこの地上は神の光でかがやき始め、死んだ者は生き返り、生きている者と一緒に瞬時に裁かれて、コーランに書かれた正しい行いをした者は天国へ、正しくない行いをした者は地獄へ送られるのである。
ここでポイントは「生きたまま」天国または地獄へ送られるということ。
コーランの記述によると、正しい行いをしなかった者は地獄で炎の中に「生きたまま」投げ込まれる。ところが焼け死ぬことはできないのである。なぜかというと皮膚が焼けただれても、またすぐに新しい皮膚が再生されるので、まさしく灼熱地獄の苦しみは永遠に繰り返されていくからだ。
地獄とはまさに阿鼻叫喚の世界。
逆に天国はどうかというと、そこは緑の多い世界で、ここちのよい涼しさ。美しい森の中を甘い川やお酒の川が流れている。その川のお酒をいくら飲んでもよい。そのお酒はなんともいえない美味で、飲みすぎても肝硬変になる心配もない。また果物などのおいしい食べ物も豊富にある。おまけに容姿端麗な女性を与えられて、セックス三昧の日々。
これほど楽しいことはないというところが天国なのである。
イスラム教徒にとって、生きたまま最後の審判の日を待つのも、死の状態で待つのもあまり違いはない。いずれかならず最後の審判の日はやって来るのだ。次の世が本当の世界で、現世はテスト期間中の仮の世界だと彼らは思っている。だから彼らはあまり死というものを重く考えないのだ。
十字軍に捕らわれた男は、たとえ家族を殺されたとしても、行いを正しくしていればいずれ全員が生き返って天国へ行くと思っていた。だから彼は豚肉を食べなかったのである。
我々日本人からすると、最後の審判の日の到来は荒唐無稽な作り話のように聞こえると思う。しかし、オマール・カーンさんや十字軍に捕らわれた男も含め、すべてのイスラム教徒がこのことを本気で信じているのである。
これはすごいことだと思わないか?
世界のイスラム教徒の人口は約15億、しかも急速にイスラム教徒が増え続けている。あと10年~20年もするとキリスト教徒を抜いて世界一の宗教になる。
そしてイスラム教徒のほとんどが、自分の命だけでなく愛する家族の命をも犠牲にしてまで、最後の審判の日の到来に備え、コーランの教えを完璧に実践しようとするのである。
オマール・カーンさんのような読者の周りにもいる一般のイスラム教徒から、アラブ世界の国を動かすほどの力を持ったイスラム法学者や政治家のような権力者に至るまで、全員がコーランの教えを信じ、その教えを何よりも第一優先に実践しようとしているのである。
9・11以降、原理主義者(ファンデメンタリスト)という言葉をよく聞くと思う。
原理主義者とは宗教の教えを忠実に実践しようとする者を言う。日本人的感覚からいうと、我々は原理主義者について一部の宗教に囚われた狂信的な人というイメージを持っていないだろうか?
ところが原理主義者とは特別な存在ではない。
どこにでもいる人たちなのである。
そして本日の投稿でオジサンがみなさんに伝えたかったことは以下。
原理主義者とはイスラム教徒だけではない。
ユダヤ教徒やキリスト教徒も本来は原理主義者なのである。
ほとんどのユダヤ教徒は旧約聖書に書かれたことは「事実」として信じているのである。
たとえば、紅海が真っ二つ分かれてモーゼに率いられたイスラエルの民が渡った出エジプトの記述を本当にあったこととして信じている。
また同様に多くのキリスト教徒はイエスがおこなった数々の奇跡(亡くなった少女に触れて生き返らせたことや、ガラリア湖の水面を歩いて渡ったこと等)を実際にあったこととして本気で信じているのである。
まさか!大の大人がそんな作り話を本気で信じているはずはない!
…と、思うのは日本人だけである。ある宗教の教徒になるということは、その宗教の教義を文字通り信じきることなのである。
宗教とは本来そういうものなのである。
たいていの日本人は、元旦は神道の神社に初詣に行き、お彼岸には仏寺のお墓参りをし、暮れにはクリスマスを祝っちゃうような国民なので、この原理主義というものがなかなか理解できないのである。どうしても原理主義者を目の当たりにすると、頭のイカレタ変人にしか見えない。
日本ではキリスト教徒であってもほとんどの人が、天地創造やノアの箱舟、あるは預言者たちのおこなった数々の奇跡を単なる比喩的にしか捕らえていない。現実にあったものとして信じている人たちは少ない。少なくともオジサンの周りにいる日本人のキリスト教徒は聖書の中の奇跡をな~んとなくそんなことがあったのかな…程度のあいまいさ。積極的に疑ってはいないものの、確信には至っていなかった。
実はこの日本人のような宗教感覚の方が、世界的に見て稀なのである。
そして問題なのは、自称「国際人」の山本社長をはじめ、多くの日本人が自分たちの持っている類まれな宗教観を人類普遍の宗教感覚だと思い込んでいることなのだ。ここに異文化間コミュニケーションの軋轢(あつれき)が生じるのである。
畢竟(ひっきょう)、宗教とは原理主義(ファンデメンタリズム)こそが本来の姿であることを肝に銘じてほしい。このことをとっくりと腑に落とすことによってはじめて、これからオジサンがお話しようと思っているユダヤ教、キリスト教およびイスラム教の驚くべき世界が理解できるようになるのである。
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あとがき)
みなさ~ん、おひさしぶりです。
今年の夏は本当に暑(熱?)かったですが、ようやく最近、朝夕がちょっと過ごしやすくなってきたかなって感じがしています。
さて今週より宗教をテーマにブログを再開します。10回~15回くらいの投稿記事を書こうと予定していますが、執筆する時間が日曜日しかないので、前回のように毎週1回の更新はできないかもしれません。(前回はかなりしんどかったです。)今回は無理せずに、不定期に投稿しますので時々覗いて下さいね。
記事の投稿間隔は長くて投稿回数も少なく、物足りない感じもするかもしれませんが、一球入魂で書き上げていきますので、気長~にお付き合いをお願いいたします。
レストランの件ですが、資金が思うように集まらず最終的には断念しました。その後、転職したのでカーンさんとは疎遠になってしまいましたが、何年かして風の噂でカーンさんは念願のお店を開店できたということを聞きました。
今回の投稿でなんとなく原理主義者というものが一部の人たちではなく、どこにでもいる人たちであることがわかっていただけましたでしょうか。しかも彼らの戒律というのは、命と引き換えでも守るというとても厳しいものです。そこらへんを理解して彼らと付き合ってくださいね。
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そうそう、本日は是非皆さんにご紹介したいブログがあります。
はなぶささんという英語三冠(英検1級、TOEIC965以上、通訳ガイド)保持者でプロの翻訳家の書かれたブログ(変身!幸せな英語使いドットコム)です。
このブログは英語と日本語のチャンポンで書かれています。
使われている英単語はいずれもタイムやニューズウィークなどで見かける「知的な」語彙ばかりで、おそらく英検の試験出題者が好みそうなものばかりです。辞書を片手にじっくりと読むとボキャビルに役立ちます。
しかしオジサンが皆さんにお伝えしたいのは、それ以上に書かれている内容がとってもいいということなんです。
円滑なコミュニケーションとは語学だけの問題ではありません。
外国の言葉を学ぶと同時に、文化、習慣、考え方等に関して、海外と日本の違いを学んでいく必要があります。その点、はなぶささんのブログにはそれらのヒントがたくさん書かれているのです。まさに一石二鳥のブログなんです!
また彼女のブログで扱っているテーマがなぜかオジサンの書いた過去ログとシンクロしています。はなぶささんのブログと合わせて読んでいただければ、2倍お楽しみいただけると思います。ぜひ彼女の過去ログも読んでいただくことをお薦めします!
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次回はそれぞれの宗教の食物規範について補足します。
それじゃ、次回もよろしくね。バイバイ!

待ってましたぁ~!!
とてもわかりやすいです。お疲れ様です。
確かに…。最後の審判時に死人まで生き返らせられるなら、家族を殺されても豚肉食べませんですわ。
日本人のほうが異様なのですねぇ。そもそも、今の日本人は何を信じているんだろう…。行動規範とか、哲学とか、大抵の日本人は持ってないですよね。政府?お金?どちらもわたしには信じられませんが(笑
投稿 avyakta | 2007年9月 2日 (日) 11時57分
とうとう始まったんですね~!
今回も、いつものように一気に読んでしまいました。
まさに「一球入魂」の仕上がりで、
特に、自称国際人の山本社長とカーンさんの対比はお見事の一言です!
>次回はそれぞれの宗教の食物規範について補足します。
これは楽しみですね~!
実はかいちゃんさんが紹介してくださった Fit for Lifeの影響で最近ベジタリアン化しつつあるんで、それもふまえつつ、なぜ豚肉がそこまで忌避されるのか、ぜひぜひ知りたいです。
ところでかいちゃんさん!
わたしのブログを紹介してくださって、本当にありがとうございました。
期せずして、虎さんのところでもご紹介をいただいたばかりなので、まさに
「盆と正月が一緒に来た」っていう感じです!
あ、すいません。確かに古いたとえですけど、
昔、奉公をしていた人たちは、1年の中で、この2回以外はお休みが無かったというくらい「有難い」ことらしいので。
やっぱり「誕生日とクリスマスが一緒に来た」だと、ピッタリきません。
虎さんと同じで、褒めすぎなことは確かですが、
不思議なほどかいちゃんさんの過去ログとシンクロするテーマが多いので、その点でかいちゃんさんの「応援団」としてお役に立てれば嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
投稿 はなぶさ | 2007年9月 2日 (日) 12時39分
avyaktaさん
いつもご愛読ありがとうございます。
いいところを突きました。
西欧の人たちは、人間が人間であるためには、何が正しくて何が正しくないかを明確に記した行動規範(たとえば聖書)と、その行動規範を権威付ける絶対の存在(たとえば神)が必要だと考えているんです。旧約聖書やコーランなどを読むと、本当に克明にやってはならないことが書かれています。
だから、彼らからすると宗教を持たない人には、何をしでかすかわからない不気味さを感じるようです。
実は日本にも昔はそのような行動規範と絶対の存在があったのです。
戦前は修身と天皇(現人神)。戦後間もない頃は、道徳教育とオヤジや教師(昔の父親や教師は威厳があった…)。
しかし今ではオヤジの権威も失墜し、道徳教育も熱心に行われなくなってしまいました。
昔のオヤジは、「偉い人になるために勉強しなさい!」と言いましたが、最近の父親は、「いい会社に入るために勉強しなさい!」と言います。父親自身がお金をたくさん稼げることを基準にしてしまっているんですよね。これでは父親の権威は失墜しても当然ですよね。
たしかに今の日本人には、信じられる行動規範というものがないのです。だから基準はお金や自己の快楽ってことになるのでしょうか。社会全体を見ると、今の日本は殺伐としてきているのかな?って思うことがあります。
投稿 かいちゃん | 2007年9月 2日 (日) 19時52分
はなぶささん
コメントありがとうございます。
はなぶささんのブログは考える糧のようなものがたくさん載っており、毎回の投稿記事を楽しみにしています。習慣や考え方などの文化面を強調しているブログはあまりないので、心強い仲間ができた感じがします。
Fit for Life がお役に立っているようでとても嬉しいです。はなぶささんは英語に関しては私などが及ばない力をお持ちなので、おそらく私が読み間違えたり、気がつかなかったような深いところまで読み抜かれておられるのではないかと思います。私が見落としていて、なにか面白いことがありましたら是非紹介下さいね。
食物規範に関してはいっぱい書きたいことがあります。20年間海外の人たちと仕事をしてきて、食べ物には苦労させられました。きっと次回の投稿記事もご満足いただけると思います。次回もぜひ見てくださいね。
投稿 かいちゃん | 2007年9月 2日 (日) 20時22分
うーん、非常に考えさせられますね。
自分の中では渦巻く思いと言うんでしょうか色々とあって、意見としてキッチリまとまっていないのですが、何か言わずには居られないという状況なので、訳解らないことを書いてしまうかもしれませんが書いてみます。
女房がクリスチャンと言うこともあって、僕の家庭は非常にキリスト教が身近にある家庭ではあると思います。聖書は数冊もありますし、娘は近々洗礼を受けることになるでしょう。僕と言えば英会話したさに、ここ2ヶ月は毎週教会にお邪魔している状況です。最近は知り合いも増えて、余計教会に足を運びやすくなったと感じています。
それでも、前から引っかかってキリスト教に傾倒できないのは、まさしく、かいちゃんの仰っていた「日本人のキリスト教徒は聖書の中の奇跡をな~んとなくそんなことがあったのかな…程度のあいまいさ。積極的に疑ってはいないものの、確信には至っていなかった。」にあります。
僕自身は「イエスの復活?」「どういう解釈をしていいんだろう?」「何か精神的にイエス様を非常に身近に感じたのかな?」というふうに感じていますがどうも違うようです。周りの信者はそうは思っていないんですよね。(僕の通っている教会はプロテスタントなんですが、かいちゃんの身近なクリスチャンと違ってと言っていいのか解りませんが、非常に熱心なクリスチャンばかりで聖書を常に通読しているような方ばかりです。)
ここの意識の差にどうも違和感を覚えていますし、こういった事を、もっと科学的というか、現実的な物事として捉えられないものかと感じています。そういう感じなので、一歩引いた目でキリスト教やイスラム教、ユダヤ教を一通り触れられそうな今後の展開に非常に期待しております。(笑)
一応、旧約、新約聖書は一読しようとは思っているんですがね(時間の都合というか、なかなか踏み切れません)、コーランまでは手が廻らないと思いますので、かいちゃん頼りです。
宜しくお願いします。
投稿 タクト | 2007年9月 3日 (月) 00時06分
タクトさん
非常に貴重なコメントをありがとうございます。
タクトさんの通われている教会には、日本人でも原理主義の境地に到達している方が多くいらっしゃるのですね。勉強不足でした。
タクトさんのおっしゃられるように、私たち一般の日本人は、「キリストの復活」と聞くと、「どのような意味があるのだろう?」って考えてしまいます。原理主義者から言うと、そんな難しい理屈はいらないのですよね。単純に聖書に書かれていることを事実として信じればいいのですから。
ところが私たち日本人からすると、どうしても聖書に書いてあることをそのまま信じられないのです。
私が大学生のときに、バレーボール部の一年先輩にクリスチャンの方がいました。この人は原理主義者でした。当時の私は宗教の本質を知りませんでしたので、「こいつ、頭がおかしいんじゃないか?」って思っていました。だから、その先輩とはいつも一歩距離を置いていました。他の部員も彼とは距離を置いているようでした。日本ではどうしても原理主義者は気味悪がられます。
ところが、欧米ではまったく逆で、原理主義者は、「よくそこまで信じることができた!」って感じで、respect されるんですよね。
私たちはどうしても聖書の記述が科学的に矛盾すると感じてしまうと思いますが、彼らからすると科学と聖書の記述は矛盾しないのです。彼らの理論はこのようなものです。
科学とは所詮、神が作った宇宙の法則を研究する学問である。宇宙の法則は神によって作られたものであるから、その法則は神によって変更することも可能である。たとえば、神が重力の法則を変更すれば、キリストがガラリア湖の水面を歩って渡ったとしてもなんら不思議ではない。神であるからこそ、このような奇跡が起こせるのである…って、感じで、彼らからすると聖書の記述と科学はなんら矛盾しないのです。死んだ人を生き返らせるなんてことは、神からすれば朝飯前のお茶の子さいさいってところでしょうか。
実際にノーベル賞を取るような高名な物理学者であっても、ユダヤ教やキリスト教の原理主義者は数多くいます。
今回はイスラム教の原理主義者について述べましたが、ユダヤ教やキリスト教の原理主義についても今後触れていきたいと思っています。これからも愛読をお願いします。
投稿 かいちゃん | 2007年9月 3日 (月) 21時18分
お久しぶりです。しばらく鼻血が出るほど忙しかったものですから、すっかり乗り遅れてしまいました(言い訳になりませんね)。
宗教については自分の中での位置づけが難しいです。
例えば前半の社長のお話のような豚肉を食う食わないという次元の話なら、文化の違いの一つとしてむしろ寛容に受け入れることができますが、後半の妻と娘の命を奪われるというところでも貫くという話になるとどうしても感情的に反応してしまいます。彼らにとっては同じ次元の話なのでしょうが。それは息子に対する輸血を拒否してその子を死に至らしめた親に対する違和感や嫌悪と似たものが。
日本人が無宗教であることはネガティブにとらえられがちですが、この特異性をプラスに発信することはできないのでしょうかね。つまり人間は常に誤りを犯す可能性があると考えれば謙虚になれるところを、神という絶対的な存在を置くことによって絶対に正しいと言えてしまうわけですよね。極端な話、神の名の下にそれが正しいという確信を持って人を殺めることだって可能になります。現代の多くの日本人にはこんなことできません。
とりとめもなくなってすみません。しかし相変わらずというか、充電を終えて一段とパワーアップした感がありますね。また次回に期待しています。
投稿 英語の虎 | 2007年9月 6日 (木) 22時19分
英語の虎さん
お忙しい中、コメントをいただき、ありがとうございます。
確固たる宗教を持たない私たちが、自分の命だけでなく、家族の命を危険にさらしても宗教の戒律を守ろうとする原理主義者を理解するのは難しいですよね。
英語の虎さんが言及されたJehovah's Witness というプロテスタント系キリスト教団体では、使徒15章19節の do not eat blood という食物規範を拡大解釈し、輸血すら拒否しています。輸血だけでなく、血液を使った薬剤(血漿剤など)も使用することが出来ないので、世界中でこれらの信者の方たちの医療をどのようにするかということが問題になっています。最近では各病院には Jehovah's Witness 患者向けの医療マニュアルができていると聞いています。
これらの人たちは宗教にガチガチに凝っていて、世間とは隔絶した生活を送っていると思いがちですが、これらの信者たちはごくごく普通の人たちです。むしろ付き合いやすい方が多いようです。私のブログにも登場してもらったことがあるショーンというイギリス人(オジサン英語の進むべき道参照)もこの団体に属する人でした。ショーンはユーモアもあるし親切な人です。3~4年に一回日本に来る日本好きの外人です。日本に友達も多く、けっこう人気者なんです。(来年も来ます!)
そんな普通に見える彼でも、不慮の事故に備えて「輸血拒否」カードを常に携帯していました。
以前ショーンに、息子さんが事故にあったらどうするの?って聞いたことがあります。その時彼は、「息子が神の国に入るために、輸血はさせない」とはっきり言っていました。
彼らもまた最後の審判の日の到来に備えているのです。
日本人はキリスト教では、死んだらイエス様のいる天国に行くと思っている人が多いと思いますが、キリスト教には天国や地獄はありません。
いつだかわかりませんが、イスラム教と同様に、キリスト教でも最後の審判の日がいつかやって来ると信じられています。その時神に選らばれた人たちは、この地球上で生き返って永遠の生命が与えられるのです。それが彼らの言う「神の国」なのです。
我々一般の日本人は、最後の審判の日の到来なんて作り話だ!という前提に立っているので、彼らが命を危険にさらしても戒律を守ろうとする行為を好ましくないように考えてしまうのです。でも、果たして本当に最後の審判は荒唐無稽なうそっぱちなのでしょうか?
それを証明することは誰にもできないのです。
ひょっとしたら最後の審判の日は本当に来るかもしれない…。そんな風に考えると彼らの行動もちょっとは理解できます。
宗教を持った方が良いのか、あるいは無宗教の方が良いかは、それぞれ一長一短があると思います。私のブログではそれらのメリット、デメリットを書くことはあえて避けるつもりです。単純に外から見たそれぞれの宗教の特質を書こうと思っています。それらの判断ができる材料を読者に提供し、読者の皆さんに考えていただこうと思っています。
それじゃ、次回もよろしくお願いいたします。
投稿 かいちゃん | 2007年9月 8日 (土) 07時33分
こんにちは。かいちゃんさん。はじめまして。
ゆかと申します。どうぞよろしくお願い致します。英語の虎さんのブログから来ました。
英語のブログだと思って来ましたが、貴重なお話、ご意見を聞けて、とても満足しています。ありがとうございます。とても勉強になります。
私も、宗教に関する問題は、民族に関する問題と同じくらい複雑なものだと考えています。
かいちゃんさんが仰った、彼らにとっての「死」は
さほど怖いものではない。その通りだと思います。
死すら恐れない。それは逆に神の加護があるからなのですよね。
私も以前こんな本を読みました。「9.11の惨事は許されるべきものではない、だか、犯行を行ったとされる、イスラム原理主義過激派は、以前日本に植民地化時代、植民地化されていたアジア諸国内(朝鮮半島と記憶しています)で起こった抗日運動と同じではないのか?」と。日本は近隣の国々を不当に、暴力的に、武力で征服し、たくさんの人々をなぶり、苛め、犯し殺しました。その日本に対し、少数でも正当に戦った彼らは、正しかった。その本には、またそのような理由から、「9..11の惨事も一概に少数派を弾圧し、鎮静すべきとは言い切れない」と、書いてありました。私もその本を読み、自分の考えに疑いを持ちました。もちろん、殺人、しかもテロ行為による大量殺人を擁護する訳では全くありません。ですが、同時に、少数を鎮圧しても解決には至らないとも、思いました。
話がだいぶそれました。申し訳ありません。彼らにとって、戦争は「ジハード」であり、死さえ恐れず、むしろ自ら神のため自分達のために命を絶つ。考えられないかもしれません。でも実在する。彼らは大真面目に行っている。
日本の常識は世界の非常識。英語の虎先生のブログで教えていただいた言葉。そのままだと思います。
彼らにとって、神の存在とは。私たちにとって、なぜ日本人であるのか、と同じくらい問うことの出来ないものだと思います。
やはり異文化理解は難しいですね。
投稿 ゆか | 2007年10月27日 (土) 22時49分
ゆかさん
とても読みごたえのあるコメントをいただきましてありがとうございます。感心しながら読ませていただきました。
>英語のブログだと思って来ましたが、
あはは、驚いたでしょう?最初は英語ブログとして立ち上げたのですが、どんどんと話がそれて、臨死体験、ダイエット、歴史そして宗教にまで広がってしまいました。
もともと、人から聞いた話や読んだ話で、感動したことや驚いたことを、誰かに話したい、聞いてほしい!って思ってしまう性格なのです。最大の被害者(?)はうちの奥さんと会社の同僚たちです。最近では会社の朝礼のスピーチなんかで、仕事と関係ない話、たとえば「死後の世界は存在するか?」なんて話をしてます(結構、受けてるような気が…)。
>私も、宗教に関する問題は、民族に関する問題と同じくらい複雑なもの
宗教ってどこの民族も持っていて、しかも原理主義者ですから、民族問題と宗教問題が入り混じって複雑なタペストリーを織り成していますよね。こういった民族問題や宗教問題を知っていて現在の世界情勢を見ていくとよくわかる場合がありますよね。
>彼らにとっての「死」はさほど怖いものではない
そうなんですよね。本当の原理主義者になると「死」は恐れるものではなくなるんですね。それぞれの宗教によって死の意味は異なってきますが…。
キリスト教で言う死は、最後の審判が来るまでの仮の死なんです。いつかこの世の終わりが到来して、すべての人が生き返り、そこで神様がより分けます。救済される者には永遠の生が与えられ、神様の御心に沿わない者には罰として永遠の死が与えられます。この時が本当の死なんです。だから、多くの日本人が誤解していると思うのですが、キリスト教には天国や地獄は存在しないんですよね。
仏教では神は存在しません。法があるのみです。そしてその法の中では、悟りを得られない人々は死んでは生き返り、生き返っては死ぬという輪廻転生を繰り返します。やがて悟りを得た人は輪廻から解放されて、永遠の死を得ることになります。ここで注目すべきは、キリスト教の救済と仏教の悟りはまったく逆になるということです。キリスト教の救済は永遠の生であり、仏教の悟りは永遠の死なんです。おもしろいですね。
イスラム教では、厳密な意味では、「死」は存在しません。最後の審判時に、神によって人々は生き返され、「生きた」まま、天国か地獄に送られます。そこで永遠に生き続けます。
>私もその本を読み、自分の考えに疑いを持ちました
知識が増えてくるといろいろな角度から物事を見ることができてきますよね。すばらしいことだと思います。
一番怖いのは「無知による善意」です。この「死ぬよりも恐ろしいこと」で紹介した山本社長にしてもそうです。彼は純粋に善意で、カーンさんに豚肉を使ったメキシコ料理を食べさそうとしたのです。そして彼が食べないのは、レストランを経営する者としての覚悟が出来ていないということで、カーンさんを叱ったのです。山本社長の宗教にたいする知識の不足がこのような悲劇(?)につながりました。
ダンテはかつてこう言いました。
疑獄への道は善意で舗装されている
無知なる善意からでた行為が悲劇を起こすことというのは、世の中にたくさんありますよね。
アメリカがそうです。私のブログ、「歯止め」まで読んでいただければわかると思うのですが、アメリカにとって民主主義は宗教なんですね。アメリカ人はキリスト教民主主義派教徒なんです。でも彼らはそれに気がついていないのです。彼らが世界中に広めようとしている民主主義は、イスラムの世界から見たら宗教の押し売りなんです。ジハードを「聖戦」と訳すことが多いですが、本当の意味は、イスラム世界を守るために「奮闘する」という意味です。これは内からのイスラム世界の崩壊と外からのイスラム世界の攻撃に対して「奮闘」することを言います。彼らは積極的に異教徒を攻めることはありません。アッラーはキリスト教やユダヤ教との共存を命じています。イスラム教ほど平和的な宗教はありません。
アメリカが無邪気に広めようとしている民主主義がイスラム世界への攻撃として捕らえているんです。これが世界の混乱を起こしている大きな原因だと思います。
民主主義って我々は最高の物と思い込んでいますが、はたしてそうなのでしょうか?イスラムの世界について私たちはほとんど知らないと思います。まずイスラムの世界を学ぶべきではないでしょうか。無知なる善意ほど怖いものはないと思います。
いずれこのブログでイスラム教をとりあげます。いっしょにイスラムの世界を学んでいきましょう!今後ともよろしくお願いいたします。
投稿 かいちゃん | 2007年10月28日 (日) 09時20分